昨日の続きで、伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒に見ていこうと思います。(この本は昭和53年に書かれています)
それでは今日もよろしくお願いします。
命を投げだす、といえば山岡鉄舟と大親分、清水次郎長とのやりとりが面白い。
鉄舟が次郎長に「お前は随分と子分をもっているけれど、そのうち何人がお前のために体を張ってくれるかね」ときくと、「残念ながら一人もおりません」と答えた。
鉄舟が怪訝な顔をすると、次郎長はいった。
「しかし、わっちでしたら、子分どものために何時でも命を投げ出す覚悟ができておりやす」剣禅一如の極意に到達していた鉄舟が「うーん」とうなったままだったという。
宗教的な「こころの詩」を得意とする坂村真民が、その辺の呼吸を一言にしていいあらわしている。
「生かされて生きるということは、任せきって生きるということであり、任せきって生きるということは、自分を無にして生きるということであり、自分を無にして生きるということは自分の志す一筋の道に命をかけ、さらには、他のために己の力を傾け尽くすということである」
宗教家でもない生ぐさい仕事にとり組む経営者がそこまで徹するのは無理かもしれないが、せめて、出処進退にあたっては「無私六割、私四割」くらいのところがギリギリのバランスで、その線くらいはどんなことがあっても保ってもらいたいものだ。
もう一つの「人間くさい作業」は「仕事に対する執着を断ちきる作業」である。
実際の話が、仕事をやっている時にはこの「執着」はわからない。仕事を離れてみて、はじめて、自分の生活に仕事がどんなウェイトを占めていたかがわかるのである。
仕事をひいた直後は、どんな人間でも、胸中を去来するのは仕事に関する思い出ばかりだ。
苦しかったこと。楽しかったこと。やりとげて生き甲斐を感じたこと。失敗して切なかったこと‥‥さまざまな思い出が走馬燈のように次から次へと浮かび上がってくる。
しかし、まだこのうちはいい。
だんだんそれが昂じてくると、何だか、自分だけがとり残されたような孤独感に陥り、下手にまごつけば、気の弱い人はノイローゼとなる。
夕暮れは買物の母のあと ついていきたいという退職せし父
朝日歌壇にのっていた短歌だが、誰しも、多かれ少なかれ、こんな気持を痛切に味わう。
見事な出処進退でしられている阪本 勝(故人)ほどの人物でも、兵庫県知事を去る時には、この「仕事に対する執着」を断ちきることの苦しさを散文詩に託している。
すべての仕事というものは「始なく、終わりなきもの」だ。
種まくもの、咲き出る花を愛でるもの、結実を祝うもの、みな、それぞれのめぐりあわせというものだ。
自分の播いた種が稔るをみたいのは人情だけれども、それはいわば小乗論だ。
中国の詩人、謝朓のうたうらく
大江日夜流ル 客心悲シミ未ダ盡キズ
歴史の大江にかげろうの身をうかべる人の身の限界を粛として知るべし。
以上です。
お疲れ様でした。