昨日に引き続いての土、日雑感です。
それでは今日も伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を皆さんと一緒に見ていきたいと思います。(この本は昭和53年に書かれています)
知識と見識と胆識と
「応待辞令」について、さまざまな角度からのモデル・ケースを書いてきたが、つきつめていえば、「応待辞令とは、知識、見識、胆識の反映」ということになる。
知識と見識とでは似ているようで全く違う。
知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られる。学校へいって講義をきいているだけでも、あるいは参考書を読んだだけでも得ることができる。
しかし、知識だけでは、人間の信念とか、行動力にはならない。
もっと根本的な、もっと権威のあるものが加わらぬといざという時にこれは役に立たない。
ある一つの問題についていろいろな知識をもった連中がいろいろな解答をする。
だが、それはあくまでも知識であって、「この問題はかくあらねばならぬ」あるいは「こうすべし」という判断は、人格、体験、あるいは、そこから得た悟りなどが内容となってくる。 これが見識である。
ところが、この見識だけでも、まだ不十分である。
どうしても反対がでる。
いうなれば見識が高ければ高いほど、低俗な人間が反対するのだ。
そこで、これを実行するためには、あらゆる反対、妨害を断乎として排除し、実行する知識や見識が必要となってくる。 それを胆識という。
「決断力や実行力をもった知識や見識」のことである。
もし、この胆識がないと、せっかく立派な見識をもっていても、優柔不断に陥って、事を成すことはできない。
以上です。
お疲れ様でした。