土、日雑感の土曜日です。
いつもの様に伊藤 肇の「喜怒哀楽の人間学」を皆さんともどもに見て行きましょう。
(この本は昭和53年に書かれています)
原稿なしの随筆的講演
余暇開発センター理事長の佐橋滋は、いかなる講演にも草稿を用意したことがない。 「日ごろ、考えていることを話すのだから原稿はいらない」のだそうだ。
それでいて、かなりきかせるスピーチで特に最近は年輪とともに一種の風格が加わってきた。
ただ、この佐橋が講演の前に一つだけやることがある。
それは控えの間で一人だけになり、5分間だけ、深呼吸をし、瞑想をし、ひたすら己を無にする作業に没頭する。
そういえば、歌舞伎の中村吉右衛門も、楽屋で支度が始まると無口になり、支度ができて出を待っている時には全くものをいわなくなる。
それは楽屋にいる時から、奈落を通って揚幕へ行って待っている時には、もう、その役の気持になりきっていなければならないからだ。
またそうしなければ、よい芝居などやれるものではないのだ。
しかし、原稿なしの講演などは、よほどの甲羅を経ないと恐ろしくてやれるものではない。 それがやれるのは佐橋だけくらいのものだろうと思ったら、作家の小島政二郎もそれをやり、「随筆的講演」と名づけている。
いわく「友人から講演を頼まれた時、私は<今夜はひとつ、随筆風の講演をしてやれ>と思いついた。
何を喋ってやろうということを考えず、何の準備もせず、ただ、私の体を会場へもって行く。聴衆の顔を見ているうちに何か思いついたことを喋る、思いつくことが何もなかったら、その訳を話してひきさがる。
そう度胸をきめて会場へいったら、何の苦労もせずに五十分、楽にしゃべれた。
しかも、あと味もよかった。偶然、ききにきてくれた若い二人の友達までが『とても感動しました』といってほめてくれた。
講演には、なかなか自信のもてない私だったが、聴衆の反応からいっても、何か、感動を与えたことは疑うべくもなかった。
以来、わたしは講演に自信をもった」
中国の古典「礼記」は「学問のしかた」に蔵・修・息・游の四つ段階を挙げている。
まず、蔵は基礎的なもの、原理的なものを懸命に記憶して体にとり入れる。
だが、つめ込んだだけでは消化不良となるから、これが血となり、肉となるようこなさなければならない。これが修である。
そしてこの蔵と修の段階を卒業すると、学問が呼吸と同じになるから息<いきす>となる。最後の游は、学問にゆったりと游ぶこと、学問を楽しむことである。
佐橋滋や小島政二郎の講演は、まさしく、游の境地であるが、游の講演がやれるようになるためにはいうまでもなく、蔵、修、息の過程を経なければならない。
以上です。
お疲れ様でした。