今日は土、日雑感ということで 言葉の原点と力というテーマを選んだのですが、最近どうも言葉の重みと言うか力を感じることが少なくなってきた様に感じています。
皆さんはどう思われますか?
先日もあるセミナーに行った時のことですが司会者が盛んに講師の方を持ち上げようと講師の実績などをアピールしていました。 そのこと自体は私も問題なく聞いておりました。
ただ、セミナーの内容を聞き終わって私は不満と言うか時間がムダだった様な印象を持ちましたが講師が主宰する○○塾への申し込みを勧誘するあまりか知りませんが講師の人間力云々と言うのを聞くに及んで本当に腹が立ってきました。
どうも身内の人間を会場前方に配して質問させ誘導する様なやり方、いわばサクラをうまく使っているような感じにも見受けられました。
セミナーの中身も如才のなさと要領がメインテーマの様な軽薄な感じを受けましたが、まあー、それは人それぞれですので良しとしても人間力と言う言葉だけは認めることはできません。
人間力ってそんな簡単に身に付くものではなく私が知る限り原理原則を基にしてこそ身に付くものだと理解しております。
こういうことがキッカケになったかどうかは解りませんが、この頃から言葉の重みと力というものが頭の中に残っていました。
言葉として人間力とはを考えていて、フト昔読んだ本の事を思い出しました。
それが今日のタイトルにもあります「喜怒哀楽の人間学」という本です。
著者は伊藤肇という方で1980年に亡くなられていますが経済紙記者を経て評論家となり、東洋学を基本にした人物論という特異な分野を目指した人で安岡正篤氏を師としていました。
それでは昭和53年秋に書かれた本ですが見て行きたいと思います。
人間学とは何か 人間を変える学問
全国地方銀行協会でやった講演を『経営者をささえる一言』という非売品の単行本にまとめた時、週間現代の特集にとりあげられ、その中で一読者が「『将来、いかなる仕事をしているか、という自分を心に描くと、ぞくぞくするような戦慄が体を走りぬける。 そういう時間を度々もつことが大切である』という話しに感銘を受けましたネ。 ありきたりの精神訓話と違って、これで私の人生が変わるかもしれないという期待を持ちました」と感想を述べていた。
文章は活字になると同時に筆者の手を離れて、読む側の人生経験や教養の度合、流した涙の量などによって、深くもなったり、浅くもなったりする。
しかしながら、筆者にとっては[ここをこう読んでもらいたい]という箇所が三つや四つは必ずある。
そこのところを的確に汲みとってもらえた時は「人生、一知己を得れば、以って恨無かるべし」というような心境になるし、全く無視された時には索漠たる気持ちになる。
それだけに「人生が変わるかもしれない」という一言は、たとい、「命がけのお世辞」であっても、非常に嬉しかった。
学問は人間を変える。 また、人間をかえるような学問でなければ、本当の学問ではない。
そして、その人間とは他人のことでなく自分のことである。 他人をかえようと思ったら、まず自分をかえることである。
今日はここまでにします。