お試し暮らし体験記⑫では⑪で書いた西予市野村町について、その続きを書きたいと思います。
『乙亥会館』から少し歩いたところに、西日本豪雨の際に上がった水位の高さを表す看板があります。
東日本大震災の「被災地」でも至る所に津波の高さを表す看板がありますが、
改めて、高さが視覚化されるとリアリティが感じられます
(逆に想像つかないほどの高さだったりするので非現実的に見えてしまうということもありますが…)。
どのような被害が遭ったのか、このあたりにおられた方はどうされていたのだろうか…などと思っていたところ、
偶然その看板のあるお宅の方と、近くでお花をきれいに整備されている方が話しかけてくださり、
いろいろお話を伺うことができました。
看板があるお宅の外壁には下のような絵があり、その周辺にはちょっとしたテーブルなどが設置されていて、
住民の交流の場となっているようで、そのこともあって今回話しかけたいただけたのかなと思います。
ちなみに、この絵の左側にいらっしゃるのがこのお宅の方ということです。
おふたりによると、ここの被害は『乙亥会館』の横にある大きな肱川と
山からここに流れてくる小さな山瀬川とがぶつかって水位が上がったことで起こったそうです。
以下の写真を見ていただくと橋の横にあるポールが双方向に倒れている(跡)のがわかるかと思います。
水が一方向からではなく、合流して力がかかったがためにこのようになったのだろうと考えられます。
山瀬川は細く、このあたりは大雨が降ると水が溜まってしまうようで、
西日本豪雨の際も人の腰の高さくらいまで水が溜まってしまったのを見たことで、
避難をされたというお話を伺いました。
山瀬川を辿って山からは(写真の奥にあるような)岩・石も転がってくるようで、
岩や石が溜まると水が滞ってしまうため、住民たちが下流に転がすようにしているというお話も聞かれました。
絵の左側にいらっしゃるこのお宅の方は、西日本豪雨の際にこのあたりに溜まった岩・石を
テコの原理を使って下に転がしていたようで、その様子がこの絵で描かれています。
大きな石を転がして流すようにする。雨が降ってる時に石を転がす。
と教えてくださり、先ほどの絵には確かに雨除けの笠をかぶっている様子が描かれていますね。
その様子を見て、近所の方やボランティアが共に
この町の復旧や交流の場を創るなどをして動いてきて今があるそうです。
すごい話だなと思いつつ、水が溜まってしまうことなどから、
このあたりに住むのはリスクが高いのではないかな…と思ったのですが、
少なくともこのお宅の方は70年ぶりにここに「戻ってきた」ということでした。
なぜ戻ってこられたのかを伺うと、以前暮らされていたところではアパートであったこともあり、
あまり交流がなかったからだそうです。
70年経つため、帰ってきてからも知り合いはいなかったそうですが、
それでも戻ってきたことでこうした交流の場が生まれ、
今回私もお話を伺うこができたと思うと、考えさせられるものがあります。
昔は(ポールの跡のある)この橋は土橋だった。昭和30年まで。町に行けるのはここからだけだった。
山瀬大橋と言われていた。ここには銭湯もあってね…(続)
とお話してくださり、
(山瀬)川で遊んで、(愛宕)山で遊んでた。
自分で剣をつくったり、昔は雪が降ったからスキーをしたり。
このあたりには昔は家がなかったから(山瀬)川を使ってね。
上から米を研ぎ、次に野菜を洗い、その下では洗濯をするんだ。
とも教えてくださいました。
(山瀬)川の下流ではおしめを洗ってもらってたの
というお話まで伺え、当然ですが、ここがただ「危険」な場所なわけでは決してなく、
確かに「生活の場所」であるということを感じさせていただく時間でした。
いま、たまねぎなんて高いでしょ。でもこのあたりはどうぞって分け合うの。
ここには家があったのだけど、空き家で土地があったからその土地を使わせてもらって花を育てている。
横断歩道で待つ高齢の人がいるから、ベンチを設置して休めるようにした。
西日本豪雨後、浸水被害を受けてこのあたりから離れられた人ももちろんいるようですが、
こうした交流の場をはじめ、家があったところに花を植えて整備されていたり、
野菜を分け合ったり、支え合ったりするコミュニティの力も感じられ、
私にとってこの野村町は特別な場所になりました。
これまたちなみにですが、絵のベンチは横断歩道で待つ人のためにつくられたベンチが描かれているそうです。
野村町に訪れることができる際にはぜひこの場所で、人々の営みを感じていただけたらななどと思うのでした。
訪れることができたこと、また、いろいろ教えてくださった方々には感謝ばかりです。