できる範囲で耳を傾け、共に考える。
今回も以前いただいたご相談(お話)から考えたいと思います。
※特定されることはほぼないと思いますが、それでもそれを避けるために、
また内容を読みやすくするために一部修正しています。
また、掲載について相談者の許可を得ているものもあれば得ていないものもあり、
以前は得ていないものは「不特定多数が感じたり経験したりする出来事として内容を変えて載せて」いましたが、
「これって、自分のあの時の相談かも」と本人が感じた場合に
もしかしたらいやな気持ちにさせてしまうこともあるかと思い、
そのような記事については非公開としました。ご容赦頂ければ幸いです。
相談(お話)内容
日本の学校の中で、おかしな校則ってあるなと思います。
たとえば…ある小学校では体育の時には下着を脱がないといけないというものがあったり、
下着の色が決まっていて先生にチェックされたりというものがあったりすると聞きます。
ひどいところでは、男女同じ部屋で下着をチェックされたり、
異性の先生によってチェックされたりするということもあるといいます。
他にも、地毛で茶髪にもかかわらず染めなきゃいけないということもあると聞きますし…
他にもおかしな校則はたくさんあるなと思っています。
こういうのは、子どもを守るべき学校による人権侵害や性暴力だと思っていて恐ろしく思っています。
共に考える
お話を伺っていて、ただただ身の毛がよだちました。。
おっしゃる通り、それらは学校による人権侵害や性暴力以外のなにものでもないですね。。
私も心底恐ろしく感じました。
子どもに教育を行う機関である学校は、子どもにとってはある種はじめて社会を体感的に感じ、
社会を学んでいく場所ではないかと私は思っています。
そうした学校という社会で、人権や性をそれほどまでに軽視し反する行動を校則として定めているという事実は、
子どもたちにとってあまりにひどく、有害なことであると思います。
学校の先生や校則というのは子どもたちにとって大きな力を持った存在であり、
建設的に抵抗していくこと、変えていくことは困難でしょう
(無理とは言いませんが、そもそもそれは子どもたちの責任では全くない)。
つまりこれはどう考えても大人の問題であるのだと思います。
お話してくださったように、おかしいと思う大人たちこそ声を上げ、
そして子どもたちの声を聴き、話し合いながら改善していかないといけないのかと思います。
そうした責任を持つひとりとして、できることをしていかないといけないと強く感じました。
お話していただいて感謝します。一緒に少しでも変えていけたらうれしいです。
さて、今回お話していただいた理不尽な校則については、
前回の子どもの性暴力の問題に引き続き、子どもたちにとって大変深刻な問題と思います。
先日、小学校でのあだ名禁止問題が話題になりました
(話題になり続けているのかもしれませんがお恥ずかしいことに私は最近知りました)。
この件については、賛否両論というより
否定的な意見が多いように感じていますが(私の見ている世界での話ですが)、
私個人としてはそのことに賛成する・否定するというよりも、
学校は本質的なことについてどれだけ子どもたちと共有できているか、ということを考えてしまいます。
「あだ名をつける」というラベリング行為は大きな力が働いていると私は思っています。
「名前を付ける」という行為は、力のある方が力のない方に力を発生させる行為と捉えることもできると思われ、
逆に働く場合においても「抵抗」のひとつの術であると思われます。言葉には力があるのです。
そういった意味で「あだ名付け」を容認してきたことは確かにリスクのあることだと思います。
ここで大事なことは、こういった「言葉には力がある」ということや「力の傾き」について、
子どもたちと共有し考えを深めることができているかどうかではないかと私は思うのです。
「リスクのあること」と書きましたが、学校で起こりうるリスクとして
誰もが思い浮かべるのは「いじめ」かと思います。
学校は(日本では特に)構造として「いじめ」が起こりやすいと私は思っています。
たとえば、みんなと同じでないといけない。みんなと仲良くしないといけないという空気がある。
固定された場所があり逃げ場が少なく、たまたま同じ地域にいた人や
同じ学力等の同質性が高い集団で長い時間を共に過ごしている。
いつも元気でいることが求められたり、できることがいいことであり、
できないことは努力不足でがんばればできるという根性論が肯定されている。
…これらは校則はないですが、学校にあるこうした構造は「いじめ」が起こるリスクが高い構造です。
では、「学校では「いじめ」が起こりやすい」ということを前にしたときに、
私たちは「いじめ」を防ぐためにどのような対策をする必要があるでしょうか。
「いじめ禁止」で「いじめ」はなくなるのでしょうか?
それよりかはよっぽど、学校のこうした構造を変えた方が
「いじめ」が起こるリスクを減らせるのではないでしょうか。
「いじめ」が起こる可能性を先生はもちろん保護者や子どもたちと共有し、
それを防ぐためにはどうしたらいいのかを考えていく方が「いじめ」を防ぐことができるのではないでしょうか?
ここで、はじめにお話しいただいた校則の話に戻る(つながる)のですが、
おかしな校則が生まれている背景にあるのは、
大人がなんらかの「禁止」(臭い物に蓋をする)をしたいという思惑ではないだろうかと思われます。
下着のことはおそらく性の逸脱を「禁止」したいという思惑(歪んだ性への考えもあるかもしれませんが)が。
髪の色を同じにするのはなんらかのトラブルが起こったときに責任を取らないといけないために
トラブルが起こることを「禁止」したいのでしょう。
「あだ名」も同様に責任のことがあるでしょうし、
「いじめ」を「禁止」したいということからなのだろうと考えます。
これれはどれも「禁止」しておしまいという思考停止です。
思考停止に対しては、賛成か反対かといった二項対立での答えを出すよりも、
私はもっとちゃんと話すことを求めたいと思うのです。
性について学ぶ機会があれば、性の逸脱についてもっと考えられるのではないでしょうか。
身体の構造や文化圏の違いについて学ぶ機会があれば、
地毛の色が違う人がいて、それは自然なことだとわかるのではないでしょうか。
人権を学ぶ機会、言葉のもつ力を学ぶ機会、力関係のゆがみについて学ぶ機会があれば、
あだ名をつけるという行為がどういう行為なのか、自分の呼ばれたい名前は自分で決めることができること、
自分が「いや」と感じたら「いや」と言って断る権利があることについて考え、
より生きやすい学校生活を送れるのではないでしょうか。
大人は、学校がどういう構造になっているかについて学び、その構造を変えていくことを考えられた方が、
そしてそれを子どもたちと共有していく機会を持てた方が、よりよい学校生活を送れるのではないかと思います。
「教育」に求められているのは、そういうことではないでしょうか。
子どもたちが自分を大事にする、それをもって他者を大事にすることを学べるために大人ができることは、
もっと開き、子どもたちと学び合い、話し合うことではないかと考えます。
人権侵害や性犯罪な校則は即刻停止されるべきですが、あだ名論争を含め、
おかしな校則のもとにはこうしたことがあるのではないかと私は思うのでした。