『ミステリと言う勿れ』シリーズ第十三弾です。
漫画の中に出てくる場面で、大事な指摘・提言ではないかと私が勝手に感じたところについて、

思ったこと・考えたことを勝手に書いていく感じのシリーズです。ネタバレになるのでお気をつけてください。

 

で扱う場面は、絵を描いていた登場人物が「絵をやめた」という話をしていた場面@3巻と、

少し飛んで、教師になろうとする主人公に対するアドバイスがされた場面@7巻のふたつです。

 

 

 

 

まずひとつ目の場面ですが、

 

絵を描いていた登場人物が「絵をやめた」と話します。

その理由を尋ねられるとその人は

「ある時自分がすごく(絵を描くのが)下手だって思えてきて、ああ才能ないなあって。パパももう見てくれないしやめた」

と言います。

それに対して主人公の整くんはこう言います。

「自分が下手だってわかる時って目が肥えてきた時なんですよ。

本当に下手な時って下手なのもわからない。ゆがんでたり間違ってたりはみ出してても気がつかない。

それに気づくのは上達してきたからなんです。だから下手だと思った時こそ伸び時です」

 

続いて二つ目の場面です。

 

主人公の整くんは、教師を目指していることを話します。

すると、ある登場人物が「あんまり向いていないような気がするけど」と言うのですが、

それに対して整くんは

「向いてるから教師になりたいわけではないです」と返します。

さらに整くんを教えている先生(実際の教師)がこのように言います。

「自分に苦手なものがあると認知してる教師は、生徒にもそれがあると理解できる。

自分にできることは人もできる、自分はこうだったから人もそうだろう、

そう信じる教師は多くを取りこぼすことになる。」


 

今回は少し短い引用をふたつ載せました。

全然違うシチュエーションであり(3巻と7巻ですしね)、

一見あまり関係ないように見えるふたつの場面ですが、

どちらも自分や誰かを大事にするために大切な考え方であるように私には感じたため、

同時に取り上げてみました。


 

私たちは能力主義の世界で生きています。

能力主義とは

才能と努力によって人はだれでも成功できるという信念

のことを指します(『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』より)が、

私たちは幼いころから努力によってよい成績を収めることを求められ、

最終的には社会で「成功」することを期待されています(一般的には)。

 

 

 

何をもって「成功」とするかといった議論はここでは横に置きますが、

こうした社会において「できないこと」や「下手」なことというのは当然価値のないものとされがちです。

しかし、「できないこと」や「下手」なことというのは本当に価値のないものなのでしょうか。

結論を言えば、私はそんなことはないと考えています。


 

もちろん、人には得意不得意があり「苦手」なものは誰しも持っているだろうと思います。

私としては「苦手」に無理に取り組む必要も、

すべてを「克服して」うまくやれるようになろうとする必要も全くないと考えていますが

(学校の教育システムはこの通りであるように思いますがその割には…

という文脈で以下お読みいただければと思います)

そのことと、「できないこと」や「下手」なことにある「価値」を教わらないこととは

また別のことと私は考えています。


 

では、「できないこと」や「下手」なことの「価値」とは何かと考えると、

たとえば、整くんの言葉を借りれば、「下手」だとわかるということは「目が肥えてきた」ということであり、

それはつまり「気づく」力がついてきたということだろうと思います。

これも漫画の世界ですが、スラムダンクの安西先生が

「下手くその上達者への道のりは己が下手さを知りて一歩目」というセリフを言っていましたが、

「下手」であることを認めるのは難しいことであり、それは「恥ずかしさ」ゆえということだけでなく、

自分の「下手さ」は「気づく」力がないと説明・理解できないという意味でもあるのかと私は思っています。


 

「気づく」力は、自分のことや誰かのことを大事にするうえでとても重要な力と思われます。

整くんは「伸びるために」と、安西先生は「上級者になるために」ということで「気づく」力を語っていますが、

私としては「気づく」力は等身大の自分の姿や適切な形・姿を理解する力として

語られることが大事かと感じています。

たとえば、「気づく」力を自分に向けて、

自分自身の本当の気持ちやコンディションに「気づく」ことにつながれば、

それに沿って言動を選択することができ、自分(の気持ち)を大事にする力となります。

自分の気持ちを大事にすることができれば、誰かに自分の気持ちを伝える場合に

「あなたも、私も大事」なコミュニケーションを取ることができるようになるでしょう

(このことをよくアサーションと言ったりしますね)。

『愛するということ』でエーリッヒフロムは

愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。

(略)この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。

と冒頭で言っていますが、私はその技術の中に「気づく」力があるだろうと考えています。

 

 

 

 

「できないこと」や「下手」なことの中に人を愛する技術のひとつがあることは

大きな価値ではないだろうかと思います。


 

また、「下手」であるということ・それを理解することは、

「がんばればできるようになる」といった能力主義から離れた視点で物事を見られるようにしてくれるでしょう。

それは誰かにがんばりを無理強いしてしまったり、

「幸せ」や「成功」の押し付けをしてしまったりする危険性を少なくすることにつながります。

 

よく聞くのは、熱血教師などが生徒に「苦手なことができるようになるまで」がんばらせるという話です。

生徒は先生に言われるがまま「できるようになるまで」がんばり、結果、「できるようになった」とします。

ですが、その時に喜んでいるのは誰かというと、生徒ではなくその教師であった…みたいなやつですね。。

生徒は「できるようになりたい」とは思っていないのに、

なんなら、先生がその熱血さゆえに「一緒にいるから!」と言ってその場にいる「せい」で、

生徒は逃げられずやるしかなくなり…ということもあるわけです。

それは一歩間違えればハラスメントと言えるでしょう。

それでも「できるようになったのだからよかったじゃないか」と思う人もいるのが現実かと思いますが、、

それは能力主義(等)に囚われていることによる悲劇です。

「できる喜び」も確かにあるのかと思いますが、漫画の言葉を借りれば、

そのことによって何かが「できるようになった」代わりに、

何か大事なこと。多くのことが取りこぼされてしまっているように思います。

誰かを大事にするためには、そのことに「気づく」力が必要なのです。


 

「下手」であること、「苦手なことがある」ということを理解できれば、

「がんばってもうまくいかないことがある」といったことを前提に、

その人が「できない」中でどうしたいかを聴き、ともに考えることができるでしょう。

それは誰かを大切にする力でもあるため、「できないこと」や「下手」なことの中にある価値です。


 

能力主義の中で、なかなか結果が出ないこと、うまくいかないことやできないこと、

下手なことや苦手なことがあるのは、それだけでつらいことかもしれません。

しかし、そこで無理にがんばる必要はありませんし、同時に、

そこで(自らの意思・望みから)がんばっていることの中には、

それ相応に価値があるといったことももっと共有されるといいなと思うのでした。