『ミステリと言う勿れ』シリーズ第十弾です。
※漫画の中に出てくる場面で、大事な指摘・提言ではないかと私が勝手に感じたところについて、
思ったこと・考えたことを勝手に書いていく感じのシリーズです。
ネタバレになるのでお気をつけてください。
⑩で扱う場面は、とある家族・親族が総出で遺産相続レースをしている回で、
その際、ある人が子どもを騙して情報を引き出そうとするシーン@3巻です。
子どもから情報を引き出そうとする人に向かって主人公はこう言います。
子どもをスパイにしちゃダメです。一生悔やむことになる。
自分がうっかり話してしまったことを、親の足を引っぱってしまったことを一生悔やむんです。
騙そうとした人は子どもがそんなことわかるはずがないと反論するのですが、主人公は続けて、
子どもはバカじゃないです。自分が子どもの頃バカでしたか?
と言って騙そうとする行為を制止します。
そう言われたその人は、自分がかつて親の会話を聞いて顔色を窺って行動していた子どもだったこと、
「大人の話すこと全部きいとった」とバカじゃなかった自身の子どもの頃を思い出します。
「子ども」と一括りにして一般論を語るということは、
「発達」の観点から言うと正しくないのですが、
子どもの思考の癖・傾向としてよく「マジカルシンキング」というものがあると言われます。
このあたりはtheLetter
で今後書く予定ですが、
「マジカルシンキング」というのは、
何かが起こった時に子どもはそれを自分に引き寄せて(自分によって)起こったことと理解する思考のことです。
たとえば、親が病気になってしまったのは自分が学校の宿題をやらなかったせいだ、といった具合に、
大人からしたらまったく論理的ではない(ロジカルの反対がマジカル)・因果関係がないと思われることを、
子どもは自分に原因を引きつけて考えてしまうことがあるのです。
それを一生そう思ってしまうということもあると言います。
このシーンで主人公が言ったセリフがこの思考に由来しているかどうかまではわかりませんが、
子どもにとって絶対的な存在である親の足を引っ張ってしまったというようなことが仮にあったとき、
それがその子に責任がないことだとして「自分のせい」と考えてしまうことは実際にあり得ます。
虐待で暴力を振われたり、ネグレクトをされたりしていても、
それは自分が悪い子だからと思っている子どもも多いと言われます。
ここについては専門的な視点で書かないといけない(誤情報を流すとよくない)と思うので、
この辺で終えたいと思いますが、子どもはそうした思考を持ちつつ、
子どもなりに物事を理解し、吸収し、覚え学んでいくものです。
したがって、子どもだからと言って大人は軽んじて対応したり、
その子を傷つけるようなことをしてはいけないということは(この思考を論じるまでもないですが)
書くまでもありません。
また、子どもはよく大人のこと、周囲のこと(空気)を含めてよく見ているものだったりしますよね。
私も、今思えば大人の顔色を伺って生きてきたように思います。
「今はこうするべき時」という基準が学校の先生や大人の顔色であり、
「自分がどうしたいか」という基準をもとに行動するということは、
少なくとも大人たちの前ではあまりできていなかっただろうと思います。
おそらく私は学校という空間においては割と優秀とされるタイプだったと思われるので
(学業と運動と性格的なもの)よく先生に頼りにされているように感じていました。
その期待を裏切ってはいけないというのか、
先生や大人に評価されていたいし、評価されることが私自身の価値と感じていたと思います。
だから顔色を窺って、評価される言動を取るようになっていたということがありました。
頼りにされることや評価されることは私にとってうれしい反面、
そういった意味でどこか重荷(失わないように必死)でもあったのかもしれないと考えたりしています。
これはあくまで私の一例ですが、子どもは大人や周囲のことを子どもなりに観察して、
ふるまい方を身に付けていくものです。
社会で生きていく上でこれは一定程度必要なことでもあるのだろうと思いますが、
これが過度になり、自分の気持ちを感じられなくなってしまう(子どもらしくいられなくなってしまう)と、
自分の人生を生きていくことが難しくなってしまうことがあり得ます。
このこともtheLetterで書く予定ですが、
そういった意味ではいわゆる「いい子」でいる子には、より注意を向ける必要があると考えられます。
いわゆる「問題児」にばかり注意を向けてしまうのが私たちだからです。
でも、子どもたち一人ひとりが何らかのメッセージを発しているのですよね。
そのことに気づくことができ、きちんと目を向けられる大人・環境が整備されることは非常に大切なことであり、
そのためには(この漫画ではないですが)私たち大人が自分の子ども時代を丁寧に振り返ることで、
当時何がほしくて何が力になっていたかを考えることが役に立つこともあるかもしれません。
何より(こっちの方が重要)、そうは言っても
ひとりひとり「何がほしくて何が力になるかは自分とは異なる」ということを大人がきちんと理解して、
学び続け、ひとりの人格を持った人として子どもに接するということが大切なのだろうと考えるのでした。