九州旅ではたくさんの念願が叶い、また、神話をはじめ「土地の物語」を堪能させていただき

本当に楽しい旅だったのですが、残念ながら「楽しい」だけが旅ではなかったりしますよね。

突然の豪雨に襲われるとか、道を間違えるとか、

体調を崩してしまうとか、行きたかったお店が開いていなかったとか…

いろいろな「残念」が旅にはつきものですが、

今回の旅で私が出会った「残念」は、あるご家庭の姿を目の当たりにしたことでした。


 

それは竈門神社の公衆トイレでのことでした。


 

父親と思われる人がスマホをずっといじっていまして、

子どもがトイレに行きたがっていても関心を示さないでいました。

 

そういうことは(残念ながら)割とよくあることなのかもと思いますが、

子どもがなかなかトイレに行かないことに対して、「行きたいなら、早く行けよ」と言いつつ、

ようやっと一緒にトイレに向かったのですが、スマホをいじったままで全然お世話をしないのです。

子どもはまだ幼いので、公衆トイレという大人がたくさんいる中でトイレをすることに

少し戸惑っているように見えたのですが、そんなの全く目に入りません。

無事にその子はトイレを済ませたのですが、

手を洗わずに出ようとしたら「手!」と言って手をぐいっとつかんで洗わせていました。

その子はトイレから出ると「ママ」と言って、お母さんの方に行きます。

父親はどうしているかというと、やっぱりスマホをいじっていました。

確かふたりのお子さんがいて、ふたりともお母さんが面倒を見ていたのですが、

その間も父親はずっとスマホを見て、後ろをついていくだけ…

その一連の姿を見て、悲しさと憤りとが私には湧いていました。。

※記憶があいまいなところもあるので細部は違っているかとは思いますが


 

憤りというのは父親に対するものもありますが、私自身に対して抱く感情でもありました。

私はそのお子さんがトイレに行く・済ます最中、陰ながらその子のことを見ることしかできず、

トイレを済ませた後に、にこっと笑顔をその子に見せることしかできませんでした。

おせっかい、図々しい傲慢な考えかとも思いますが、

その短い間だけでも、そのご家庭の間に入って何かできなかったものかな…と思ったりします。


 

また、竈門神社でのことなので、おそらくその子は鬼滅の刃が好きとか、

少なくとも鬼滅の刃を知っていて、アニメの舞台の神社に行けた!なんてことは、

それはそれはとてもうれしいことだっただろうと思います。

それなのに、、そんな風に対応をされてしまったその子の心はいったいどれほど傷ついただろうと…

そして、おそらくこれはたまたまそうであったのではなく

日常的にネグレクト(虐待)が行われているのだろうと思われるわけですが…

旅先のことなので、ここで仮に189に電話してもどうすることもできません…

この無力感と辛すぎる現実を悲しく思います。。


 

モラ夫などとよく言いますが、そういった人たちの背景には、

傷や有害な男らしさの呪縛、同じように育てられてきた連鎖など様々あると考えられます

(長くなるのでここでは書きません)。

また『スマホ脳』という本もあるように、

スマホでコントロールされる(依存)関係からこのことを書くこともできるでしょう。

 

 

そうした意味では父親も被害者です。

が、しかし、それによる子ども(もちろんパートナーもですが)の人権侵害が

許されるということは決してありません。

少なくとも国はこうした現実を踏まえて子どもたちを守ることを考えなければならないのですが、、

こども「家庭」庁という庁を“わざわざ”作って

「子どもは家庭でお母さんが育てるもの」などというあまりに古臭い、

人権感覚のないことをしていますよね、これがまた悲しさと憤りを抱かせます。。


 

子どもを守るためにはどうしたらいいのでしょうか。

地域で、社会で理解を高めていく(居場所などの活動やすでにある子どもの場に携わる大人たちが学びを重ね続けるを含む)しかないでしょうし、

ひとりでも多くの大人が子どもをひとりの人格を持った人として

尊重できるようになるしかないのかもしれませんが、

その意識づけ(仕組みづくり)や、そのために大人が安心して暮らせる、幸せに豊かに生きていられる

―それは経済的な意味だけではなく―環境の整備を国がしていくことは急務だと思います。


 

私たちは見たいものしか見ないと言いますし、私自身も偏った見方で、

たまたまそうしたご家庭を見ようとしてしまったということもあるのかもしれません。

が、それは確かに「ある」のですよね。

為政者らはそうしたことを「見ない」でいるかもしれませんが、

「ある」ということを訴えていかないといけないと思いますし、

「見ないでいられる」特権を自覚してもらえるように行動していかないといけないのかと考えます。


 

旅のように一期一会だからできることもあれば、できないことも多くある。

そのことを感じつつ、子どもたちを守るために

(子どもは守るだけの弱者ではないので実はあまりこういう言葉を使いたくないのですが)何ができるか、

何をする必要があるのか…今後も考え続け、行動していきたいと、、旅を通じて改めて思わされるのでした。