オンライン飲み会において、
大学生の状況(苦悩)を聞かせてもらいました。
私の周りでは今のところいませんが、
バイトができなくて学費が払えず、
大学を退学しないといけないかもしれない、というような学生さんたちもいるようですね。。
それぞれの大学で対応をしているところもあるようですが、
「教育格差」を放置してきた結果とも言えてしまうため、
政府は責任をもって対応をしていく必要があると思っています。
少しでもそういう社会のゆがみ・膿みたいなものが是正されていき、
いま困っている学生さんたちにいち早く支援の手が届くといいなと思います。。
無論、政府に任せっきりではなく、
私のような一般人に何ができるか…そういうことも考えていたいです。
さて、ここではそういった死活問題みたいなものではないけれど、
学生さんたちがそれぞれ苦悩していることがわかる声を聴かせてもらったことから、
『下方比較』のことを思ったので、
そのことについて書きたいと思います。
『下方比較』とは文字通り、自分よりも「下」と思われる状況の人を見て、
「他の人と比べて自分の方がマシだ」と捉えることを言います。
大学生はコロナの件で、
旅行ができなくなったり、ライブに行けなくなったり、
友達と遊びに行ったり、学生生活を謳歌できなかったり…
そういう状況に立たされています。
それは本人たちにとってはすごくつらいこと、悲しいことだと思うのですが、
死活問題に陥っているわけではないので、
その辛さや悲しみを「軽いこと」として、「仕方のないこと」と捉えています。
「みんな大変なこういう状況なのだから」
自分たちの状況は「仕方ない」わけですよね。
それは、想像力や配慮の問題でもあり、
また「そう思うことでがんばれる」みたいな側面もあるものだと思います。
しかし、「失業した人に比べれば」、
「学費が払えなくなってしまっている人に比べれば」など、
誰かの辛さや悲しみと比較して「自分はマシ」だと思い続けると、
自分の辛さや悲しみを軽視することになり、苦しくなってしまうこともあります。
かといって、それを発言することで、
心ない人に傷つけられるようなこともあるため、
余計に発言することが難しく、無言の圧力により我慢を強いられてしまいがちです。
過度に我慢をするとなると「自分は悲しんでなどいない」と
辛さや悲しみを否定することにもつながっていきます。
自分の気持ちを否定すると、孤独を感じるようになり、
もしそれが続くと、普段の自分ではないような行動を取ってしまったり、
精神や身体に不調をきたしたりしてしまう恐れもあります。
コロナが落ち着いた後、
ふつうの生活に戻ることがうまくできなくなってしまうという人、
自分自身を表現することが困難になってしまう人も出てくるだろうと想像もされます。
・・・
何が言いたいかと言うと、
「辛さや悲しみを比べなくてもいいよ」ということです。
そして、辛さや悲しみをひとりで抱えないで
「信頼のおける誰かや機関に話してもいいよ」と言いたいです。
辛さや悲しみは主観的なものです。
「ライブに行けなかった」という悲しみが、
Aさんにとっては一生に一度行けるかどうかだったかもしれません。
それを生きがいにして、支えにして、これまで必死に生きていたかもしれません。
ひとりひとり、観えている世界も歩んできた道も、
紡いできた物語もすべて違うので、
辛さや悲しみを比べるということは本当はできないのです。
それは、学生だけでなくコロナ禍で生きているすべての人に当てはまりますね。
下方比較は「みんなが大変」な状況にあるときに起こりやすいものです。
「みんな大変」ということは、
悲しみが公にされているからであり、
そして、すぐ近くに「自分の悲しみと比較する対象」が在ることだからです。
ただし、「辛さや悲しみは言うべきだ」などとは私には決して言えないです。
「話をすること」=「“絶対に”心が軽くなること」ではないと思っているからです。
信頼できる相手がいるとき、
それを受け止められる社会があるときに、
きっと、話をすることで結果、心が軽くなることはあるだろうと思っています。
だから、我慢しすぎて消化不良を起こしてしまいそうなときには、
それが世間から見たら取るに足らないことに思われてしまいかねないと思うとしても、
信頼できる誰かに、または相談窓口などに、辛さや悲しみを言ってもいいと思います。
少なくとも確実に言えることは
「あなたのそのつらさや悲しみは大切にされるべきもの」
ということです。
頼りになりませんが&どんなやつかもわからない人ですが、
私でもよければ、
その時はブログにコメントなり、DMなりいただければと思います。
どうかひとりで苦しまず、
よきコミュニティに出会い、少しでもこの自粛生活が安心できるものになればと願います。