外出自粛ということもあり、

おとといは『包帯クラブ』という映画を観ました。


 

映画の内容に(一部ネタバレ)簡単に触れつつ、

この映画が問いかけている(と私は思う)、

「傷と共に生きる」ということについて、考えたことを書きます。


 

映画のタイトルにもなっている『包帯クラブ』というクラブは、

「誰かが傷ついた場所に包帯を巻き、

それを写真に撮って、傷ついた本人に“手当て”として

その写真を送る」という活動をする、

高校生が作ったクラブのことを指しています。


 

高校生たちは、クラブのホームページを作り、

みんなの“心の傷”と、包帯を巻いてほしいところを募集します。


 

サッカーでオウンゴールをしてしまったこと。

美容室で髪型を変な風にされてしまったこと。

鉄棒で逆上がりができなくてバカにされてしまったことなどなど、

募集をすると、様々な傷が送られてきます。


 

そこには、とても内容を書くことができないような深い“傷”もありました。


 

クラブの高校生たちは、

様々な”傷”が送られてきては、

その傷が生まれた場所ひとつひとつに訪れ、

「どんな風に包帯を巻いたらいいだろうか」と

一生懸命考えて写真を撮っていきます。


 

高校生たちの知らないところで

その行動に励まされる人たちもいれば、

その活動に対して「偽善」とか「自己満」とか、

「そんなことで傷が癒されるわけがない」といった批判も

浴びせられるようになっていく・・・


 

本人たちもその批判・問いに対する答えを見出すことはできず、

自問自答を繰り返しながら、でも、できることを探して、実践していく。


 

そして、自分自身や自分の仲間の傷についても

向き合っていく。

そういった物語になっています。


 

多感な時期の高校生だからこそのパワーや未熟さも描かれつつ、

世界中がコロナで苦しんでいる今、

とても大事な映画のように私には映っていました。


 

私がこの映画を知ったのは、

宮地尚子先生という社会学者で精神科医の先生が著された

『傷を愛せるか』という本を読んだことがきっかけでした。


 

宮地先生はその本で『包帯クラブ』について

「専門家は(包帯クラブの)彼らのような姿勢を持つことができているだろうか」

という風に書かれていたと思い、強く心の中に残っています。


 

『包帯クラブ』の活動は、言ってしまえば、ただ包帯を巻くだけです。


 

作中にもあるように、偽善・自己満、

そして、「そんな簡単に人の傷が癒えるわけがない」と、

そう思われる活動と言えるかもしれません。


 

そもそも、

心の傷についてずぶの素人である高校生に何ができるのかと、

そういうことも思わせるものかもしれません。


 

ただ、そこには「何もできないけれど」という無力さを噛み締めた祈り、

「何もできないけれど、あなたが傷ついたことを受け止め、認め、

大事にしたい」という祈りが見て取れるように私には思っています。


 

そして、その祈りなしに

誰かの傷を大切にすることなどできないのではないかと私は思っています。


 

東日本大震災以後、私は震災支援というかたちで

様々な人たち・地域に関わらせていただいてきました。


 

精神領域に関わる対人支援の活動をさせていただいてきたのですが、

目に、耳にするのは小手先のスキルや、

自分たちの“正しいやり方”のことばかりでした。


 

傷ついた人・その機械的な“対象”に

どんなスキルで関わるかということばかり学ばされ、

その領域の専門家たちから、

傷ついた人の人生の深みや物語に敬服することを学ぶ機会、

つまり、“姿勢”を教わることはほぼありませんでした。


 

私からしたらそれらは「そんなこと」であり、

「人が傷ついた場所に包帯を巻く。そんなことで人の傷が癒えるのか」

という包帯クラブの高校生たちに対する批判の方が

高尚に思えるものでした。


 

社会全体が、効率・成果史上主義に覆われてからでしょうか。


 

人の心も早くよくして社会で戦えるように。

人が困難を乗り越えた証、立ち直った証、それを示す数字を出すように。

そのために有効だった手法・手段をマニュアルにするように。


 

人の傷と向き合ってきた努力を否定するつもりは毛頭ありません。


 

早くよくなることで当事者は早く楽になることができ、

数字を出すこと、マニュアル化することで、

傷ついた人をこれ以上傷つけないための指針(原則)が見えてくることも

確かにその通りだと思います。


 

そこを否定しているのではありません。


 

そうではなくて、そこに奴隷のようになってしまっていないか、

大切にするべきことが変わってしまったのではないか、と思うのです。


 

目に見えない傷つきと向き合っているのに、

目に見える成果を追い求めることに偏って(奴隷的になって)は、

見ている場所が根本違ってしまうことは明らかと若輩の私は思います。


 

目に見えない傷つきを見るのだから、

クラブの子たちのような目に見えない祈りなしに、

誰かの傷に寄り添うことなどきっとできないのだと思います。


 

「人間は傷つきやすい」


 

『心の傷を癒すということ』というドラマ(本)で

その一節が取り上げられていました。

このドラマも宮地先生が監修でした。


 

誰もが大なり小なり傷を抱えているのだと思います。


 

だから、人は傷つきながら生きていく。

傷と共に生きていく。


 

その傷の中には、残念ながら、明らかに意図的につけられた傷もあるけれど、

無意識に傷つけられたものもあり、

そして、また、私たちは無意識に傷つけてもいきます。


 

一試合オウンゴールをしてしまった「だけ」のこと。

美容室で髪型を変にされた「だけ」のこと。

鉄棒で逆上がりができない「だけ」のこと。


 

もしかしたら、これらは誰かから見たら取るに足らない、

「だけ」のこと、ほんの些細なことに思えるかもしれません。


 

でも、ほんの些細に思えることで、

ほんのちょっとした言葉で、誰かが深く傷つくことがある。

「人間は傷つきやすい」のだから。


 

映画の最後、

「逆上がりができないのは肉が重すぎるからだ」と言われ笑われた子が、

逆上がりができるようになって克服するシーンが描かれています。


 

包帯が鉄棒に巻かれている写真を見て、

その子は、練習をします。

それを見守る主人公がいて、とても素敵な最後となりますが、

でも、もし逆上がりができなくたっていいんだよ。


 

傷ついたことをカミングアウトしたこと。

ちゃんと助けを求めたこと。

自分の力を侮らなかった(鉄棒で逆上がりをしたいという思いを大切にし続けた)こと。


 

そのことが尊いのだと私は思う。


 

私たちは傷と共に生きていく。


 

傷つきやすいということ、傷そのものが誰かに認められ、

社会に認められ、

傷と共に生きていくことが尊ばれる世の中になれば、

そうしていくことができれば、そんな風に思います。