志村けんさんのことで「あいまいな喪失」という言葉を使い、

その説明として「さようならのない別れ」と

「別れのないさようなら」という言葉を使いました。


 

「さようならのない別れ」については、

志村けんさんのようにご遺体に面会できないまま、

また、火葬場に立ち会えないままの別れとなる、

「さようなら」と言えないで別れることになること、

あるいは、大切な人が行方不明になられた場合などの例を出して

書かせていただきました。


 

ここではもうひとつの方、「別れのないさようなら」について書きます。


 

「別れのないさようなら」は少しわかりにくいかもしれませんね。


 

噛み砕いて書くと、

「物理的に別れてはいないのだけど、

もう以前のあの人・もの・あの場所ではない」

という状態のことを指します。


 

よく言われるのが、

たとえば大切な方が認知症になられた場合です。


 

認知症になられると、

今までとは違った言動を取られたりすることがありますよね。


 

私の父方の祖母はパーキンソン病となり、

いつも「財布はどこ?」と言うようになりました。


 

しまいには、父のこと(実の息子のこと)を「誰?」と

わからなくなってしまうようになりました。。


 

父が一度「会いに行ったって誰かわからないんだから、

会っても仕方ないだろ」と言っていたことをよく覚えています。


 

いい年になっている父ですが、

その時の悲しみはとても深かったのだろうなと思いますし、

父のその言葉は「別れのないさようなら」を表す言葉と言えるでしょう。


 

大切なその人はそこにいるのに、あのときのその人はもういない。


 

これも「さようならのない別れ」と同様に、

区切りをつけることがとても難しく、

複雑な気持ちを持ちやすいものと思われます。


 

あの時の話をしたいのに分かち合えないということもあるでしょう。


 

誤解を生んでしまうかもしれませんが、恐れずに言葉にすれば

「いっそ亡くなっていれば、分かち合えなくても仕方ないと思えるのに」

というように感じられることもあるのかもしれません。


 

以前のように戻ってくれるかもしれないと思うけど、

もう戻るということはないという現実を、

毎日目の当たりにするということでもあるかもしれません。


 

そういう現実、毎日を目の当たりにさせられ続け、

「大切にしたいのに大切に思えない、でも大切にしたい…」と、

そういう複雑な思いを行き来されるのではないかと想像がされます。


 

その視点で言えば、災害によって町が一変する体験も、

一種のあいまいな喪失「別れのないさようなら」と言えるでしょう。

 

被災して一変してしまった町は、

物理的に町はあるのだけど、あの頃の町ではないわけですね。

つまり、「自分のふるさとなのに、自分の知っているふるさとでない」という状態です。


 

それは、被災直後だけでなく、

被災後に長く続く復旧・復興工事の過程においても当てはまります。


 

たとえば、復旧作業などにより、

外部からたくさんの工事関係者や支援者が地域に入ります。


 

それによって(仕方のないことなのだけど)、

治安が悪くなったり、文化を否定されたり、

そういうことも残念ながら起こってしまいます。


 

ある方が私に感情的になりながら、こう話されたことがあります。


 

「飲み屋にいくとさ、聞こえてくる言葉が違うんだよ。

ここいらの人たちの声(言葉)がちっとも聞こえないんだ。」


 

その方は地域からも信頼の置かれている方で、

決して弱音を吐かないような方だったのですが、

今にも涙を流しそうな様子で、私の肩を揺らしながらそう話されていました。


 

そこには、少子高齢化や人口流出(減少)で町が衰退していくという恐れも

あったことと思います(それはまた別で書きます)が、

「自分の知っている町でなくなっていくこと」

「自分の知っている町が将来的に消えてしまうかもしれない」ということからだったのだと思います。


 

このように、「別れのないさようなら」には、

人だけではなく、ものや場所などにもよく見られます。


 

「ものごとは変化するのだから、仕方ないではないか」という声も聞こえてきそうですね。


 

おっしゃる通りなのですが、

だからと言って、悲しくないわけではないし、

その原因が何か、スピードがどうかなどで、人の気持ちは異なります。


 

「別れのないさようなら」に関しては、

ある日突然気が付くということが多いかもしれません。

もしくは、「もとに戻るかもしれない」という期待や、

「もとを思い出せなくなる」不安もついて回るかもしれず、

それらに決着をつけることは容易ではないと思います。


 

これは「さようならのない別れ」にも当てはまりますし、

あらゆる喪失に当てはまるのですが、

そもそも喪失体験=変化であり、人生=変化の連続なので、

私たちは喪失体験の連続を生きていることになります。


 

でも、それぞれの人や人生に違いがあるように

それぞれ、様々なかたちの変化(喪失)を経験していくことに対して、

どう対応していくか”ということが

ポイントになるのですが、

それが、個人の自己責任ではなく、

社会として大事にされていく必要があるのだと思います。


 

人は一人では生きていけないように、人生が喪失の連続としたら、

支え合える関係性、仕組みが必要なのです。


 

今の状況のように、世界中の人が変化に揺らされる中で、

生活が困難となるほどのダメージを負う方も多くいます。


 

生活保障的な視点から対応の仕組みが作られている必要がありますし、

社会の目線が変化に翻弄される人たちに対して冷たいものにならないよう、

ひとりひとりが知恵・生きる余裕を高めていく必要があると思っています。


 

「あいまいな喪失」の中にいる人たちも安心して

「あいまいな中にいられるように」(その中にいるということはかなりのエネルギーを消費し、お辛い状態と思います)

そんな社会にしていくことができるといいなと思っています。


 

PS.最後に言うのもなんですが…

「あいまいな喪失」という言葉は専門用語?っぽく聞こえて、実はあまり好きではありません(苦笑)

また、区切りがつけやすければいいということでも決してありません。

物理的に区切りがついたあとに、

また違う気持ちを抱くことになったりするものでもあります。


 

大事なことは、

知識を状況に当てはめて考えること(それも必要だけど)ではなくて、

想像力を働かせて、

状況から知識・知恵を得て温故知新的に創り上げていくことだと思っていますので、

その点だけ誤解のないよう、最後に書かせていただきます。


 

また、ここで触れた復興による「あいまいな喪失」に関しては、

ビルドバックベター(創造的復興)などの記事として、

また別で書きますので、

ご関心ありましたら、お読みいただければ幸いです。

 

お読みいただきありがとうございます。