先日、テレビをつけたら、

たまたま「居場所をください」という番組がやっており、少し見ました。
 

はっきり言って、

当事者の方々には申し訳ありませんが、

私からすると見ていられないひどい内容のものと感じてしまいました。。

 

メディアに関しても、

あれをテレビで流すことができる感覚が、

私にはわかりませんし、

もし、あれを「子どもたちへのいい支援」と世間がとらえるとしたらぞっとするので、

ゆっくり書こうと思っていたのですが、

「支援」について、今後、どんどん書いていこうと思います。

 

まず、最初に『災害ないない』エピソードを書きます。

テーマは「言えない」です。

 

被災されたある方と親しくなり、

飲み屋でさし飲みしたときのことです。
 

その方は、ご自身が被災されたことや、

その後の町の変化、支援のことなど、様々な話をしてくれました。

 

その時に、その方が私にある一言を話してくれました。

 

それは、「震災後、何が一番つらかったかって言うと、

支援者に“こうしてほしい”って言えなかったことだね。

本当はこうしてほしいけど、私は支援を受ける側だから、そんなこと言えない。」

と。

 

震災後、被災した地域には、様々な支援が外から入ります。

 

そこには、(よくわからない)実績のある支援団体や、

「こうするといい」ということを教えに来る人たちもいます。

 

助けられることも無論多いのですが、

そうすると、

たとえば、家族を亡くした人だけの集まりがあったり、

家を流された人対象のイベントが開かれたりします。

 

その方は確か、

「私は家族を亡くしていないけど、大事な人が亡くなったりしたのだけど、

行っちゃいけないんだなって。

私って被災してないのかな、泣いちゃいけないのかなって思わされた。」

というようなことを続けて言われていたかと記憶しています。

 

「被災者って何か」については、また別の『災害ないない』で書く予定なので、

ここでは触れませんが、

支援によって傷つく人(こと)もいる

という事実、支援という名の暴力があるということを、

対人・対地域・災害支援に関わっている方は、

知る必要があると思い、

災害ないない―言えないーエピソードを載せさせてもらいました。

 

私のことをよく言う意味ではないのですが、

私はその話をしてくださった方からすると

外からやってきた支援者です。

 

ですが、支援者の私にその方はそう言ってくださったのです。

 

それは、とても勇気のいることだったと思います。


その方の勇気と、信頼関係がなければ「言えない」ままだったかもしれません。


被災という側面だけでなくても、

今もたくさんの「言えない」が世の中にはあるのだと思います。

 

「居場所をください」の話に戻りまして、

私が見た限り、子どもたちに関わっていた大人たちは、

みんな、支援によって傷つけることもあるという暴力性について、

自覚がないように見えました。


あるいは、「子どもたちが傷ついてでも」という名のもとに、

正義を振りかざしているように、

私には見えました

 

支援者と被支援者の間には、パワーが発生します。


そもそも、大人と子どもというだけで、

無意識にパワーバランスが生まれがちになります。

 

彼らの言葉遣い・態度などからは、

当事者の気持ち、当事者にとっての幸せに寄り添う気持ちなどが、

少なくともあの映像からは感じられず、

信頼関係を築く努力が全く見られませんでした。

 

上から目線で、勝手な「君の幸せ」を押し付け、

子どもたちをただただダメな、未熟な存在として見下しているようにさえ、見えました。


 

あまりに当たり前のことですが、子どもにも意見があります。

彼らには彼らの考えがあり、彼らの苦しみや幸せがあり、

そして、生きていく力もあります。


「支援者じゃなくて家族・親のように

子どもたちに厳しい言葉をかけてるんだ」

と反論されることもあるかなと思いますが、

親であっても、子どもの権利の乱用はしてはいけないので(虐待になります)、

子どもの主導権や思いを尊重する必要はあるのです。


あの映像からはそれは見られません。

 

子どもたちの力を信じて、寄り添うことが支援者の役割であり、

なんなら、彼らが今苦しんでいるとして、

もしかしたら、その苦しみを生んでいるのは社会のあり方かもしれないわけです。


そうすると、その社会をつくってきたのは、私たち大人なのだから、

その反省やお詫びの言葉、社会をよくしていく努力も必要なのかもしれません。


誰かをサポートするということに関わるのであれば、

そのくらいのことを考える必要があるのではないかと私は思います。

 

このブログを読まれた当事者関連の方から、

「内情について知ってほしい」というご連絡が入りました。

 

当事者関連の方がこの記事を読まれると、

不快・不安等の思いをさせてしまうなと、

私こそ配慮が足りないなと深く反省した次第です。

大変申し訳なく思います。

 

記事を削除することを考えましたが、

ここに書いていることに偽りはないため、

残させていただくことにしました(少し書き方を変えたりしますが)。

 

また別で書きますが、対人支援において正解はないと思っています。

ですが、原則はあると思っています。

 

・害のないようにかかわること

・当事者に主導権があり、当事者の思いが尊重されること

などです。

 

あの放送ではそれらが感じられず、

それはもしかしたら、メディアの問題かもしれませんが、

もしその原則を知っていたら、

少なくとも、あの場面を放送させないと思います。

 

「隠ぺいするべき」という意味では決してありません。


そういうことがそもそもあってはおかしいのですが、

対人支援をしている方々であれば、

あの放送では、世間の人たちに誤解(なのであれば)を与えてしまうことがわかると思うのです。

 

そういう意味では、私は誤解をした人に過ぎないのかもしれません。

 

でも、「あれが正しい」とされるリスクを考えると、

やはり記事を消すことはできません。

 

当事者関連の皆様は藁をもすがる思いで、

つながっていると思うので、

不愉快な思いをさせてしまっていたとしたら、

本当に申し訳ありません。


大した力のない私の一意見ですので、どうぞお気になさらずにいていただけたらと思います。


当事者関連の皆様が誰かにSOSを出せた、ひとりで抱えずつながろうとできたことは、

素晴らしいことだと思いますので、

そのことは続けてもらえたらと思っています。


私の目的は糾弾ではなく、

苦しまれてる皆様がよりよい方向へ歩まれていくことです。

どうかご理解いただければ幸いです。