先日、相方がケガをしました。

正確には、ケガというよりも、

PC作業などで肩が凝り固まってしまったようでして…左(?)肩を動かすと激痛が走り、

腕(無論、肩も)も動かすことができず、さらには歩くと振動で響くという事態にまでなってしまったのでした。


おかげさまで2、3日でよくなったのですが、私なりにサポートできることをさせていただく中で、

頭を過ったのは「介護の大変さ」でした。


ここでは、「介護」について考えたことを書きたいと思います。


 

まず「介護」というと、どのようなイメージが浮かぶでしょうか。


 

人を持ち上げてベッドに寝かせたり、車いすを押したり、食事や排せつのサポートをしたりなどなど、そういうことが浮かぶのではないかなと思います。


 

私も「介護」と聞くとイメージはそのようなものでして、そういうイメージを通じて、「肉体的に大変そう」、「精神的に疲れそう」という印象が「介護」にはあるのではないかと感じています。


 

それらはどちらも実際にあるのかと思われますが、私の今回の経験ではそういう類の「大変さ」ではなく、

「時間」という視点における大変さや「相手を大切に思う」からこその大変さというものを感じたので書かせていただきます。


「時間」という視点における大変さについてですが、

誰かを介護(サポート)するということは、当然、自分の時間を削って行うことになりますよね。


 

今回相方がケガをしたことによって、たとえば私は本を読んでいても(=自分のために時間を使っていても)、

唐突に相方の世話をしに行かないといけないタイミングがあることを経験し、

「時間」をうまくコントロールできない大変さを感じました。


 

冷静に考えれば、決められた食事の時間や睡眠の時間ということを除いては、

基本的に介護が必要(誰かの手助けが必要)なタイミングというのは、

介護される方の動きたいときとか、生理現象が起こるタイミングなわけで、介護する側が介護する時間を選ぶことはほとんどできないに決まっていますよね。

 

自らの時間を削って誰かのサポートをするということで喜びに近い感覚を覚えることもあると思いますが、

その時間を選ぶ(コントロールする)ことができないという状況は、結構しんどいことではないかと思います。

 

話は少し脱線しますが、こういう状況というのは、介護だけではなく子育てなどにも当てはまると言えます。


 

子育てでは、子どもの食事を作り、トイレの世話をし、お風呂に入れ、子どもと遊び、そして寝かしつけるというように、自分の時間を使ってあらゆることを子どものために費やします。


 

子どもが泣いていれば、読書をしていようと、トイレに入っていようと、カップラーメンが3分経った瞬間であろうと、

その子のもとにかけつけてあやしに行き、お腹がすいたのか、どこか痛むのか、はたまた、眠いのかなどを察して、

それに対応することが求められますし、買い物をしに行くにも、子どもをひとりで家に置いておくわけにはいかず、

抱っこ紐なり、乳母車なりを用意して買い物に連れていき、あわただしく買い物を済ませたりするのだと思います。


 

このように、子育てというのは、ゆっくりと自分の時間を自分のためにコントロールすることがむずかしくなることと言えるように思います。


 

子どもは待ってくれないですし、こちらが「待った」ら命の危険に直結してしまう可能性も高いものであり、責任が重く、休まることがなかなかできないことであるとも言えるでしょう。


このような「大変さ」があるのに、たとえば、(残念だけど)日本の家族あるある的なことを書けば、

旦那さんが仕事から帰ってきて、ビールを飲みながら、

「おまえは家で子育てをしてると言うけど、子どもが寝ている時間とかは自由だしいいよな。」みたいなことを言ってしまうわけですよね。


 

仕事を軽視しているわけでは決してないのですが、仕事は今日は9時から会議で、13時から○○会社へ訪問で、ノー残業デーだから18時には会社を出るというような感じで、

ある程度、時間をコントロールすることができるものであり、「大変さ」の種類が違うのです。


話をすれば「待ってくれる」ものも多いでしょう。

子どもは待ってくれないのです。


 

脱線しすぎたので、話を「介護」と「時間」という大変さに戻すと、

ここで書いた通り、介護は本来的には介護をする時間を選べない・コントロールできないものであり、

「待って」もあまり通用しないものであるという自分の時間をコントロールされる「大変さ」があるのだと今回実感しました。


 

子育ても介護も、そういう想像力が求められるのだと思います。


 

続いて、「相手を大切に思うからこそ」の大変さというものですが、

今回、相方のサポートをさせてもらっていて思ったのは、

当然のことですが、「痛む」タイミングは本人も選べるわけではないということでした。


 

自分もなるべく「痛い」と感じたくないので慎重に行動するのですが、それでも何かの拍子に痛むわけですよね。


 

痛めばこれも当然、その都度「いたっ」と声が出てしまいます。


そうすると、私は「大丈夫?」と気になって声をかけたり、具体的にサポートをするために身体を動かします。

ここまでは大切に思っているかどうかに関わらず、「まあそうだよね」という話かと思いますが、

ここで大切なのは介護される側の視点です。


 

相方はやさしい人であり、私のことを大切に思ってくれているため、「私に心配をかけないように」と考えます。


 

つまり、「痛い」という声を出さないようにしてしまったり、逆に「痛むのに自分で動いてしまう」ということがあると考えられるのです。


 

「痛い」という声を出さないようにするということは我慢をすることであり、

私からすると我慢しないで「痛いときは痛いって言ってもらえた」方が安心します。


 

でも、それは介護される側からすると「私が痛いと言うたびに心配させてしまう」ということでもあって、我慢を優先した方がかえって気がラクというものでもあり得るわけです。

「痛むのに自分で動いてしまう」というのは、私に自由にしていてほしいから自分でできることは自分でするということですが、

そうすると我慢強い人でも(痛みの程度などにももちろんよりますが)10回に1回くらいは「痛い」の声が漏れ、「大丈夫?」と私がかけよる機会がかえって増えたりします。

それは双方にとってちょっぴり悲しいことかもしれません。


もちろん、大切に思うからうまくいくこともたくさんある(それが前提でできること)のが介護の世界だと思いますが、

大切に思うからこそ「大変さ」が増えるというのか、独特の「大変さ」が生じるというのが介護の世界なのかなと今回感じたのでした。


 

よくよく考えると、これも介護だけでなく、子育てや対人援助の世界で似たようなことが起こり得ますよね。


私たちは様々な「大変さ」を経験するわけで、ひとりひとりにとって「大変」と感じるポイントはひょっとしたら違うかもしれない。

その「大変さ」の背景には、必ずしも「悪い」と普段思われていないものもある、むしろ「良いもの」とされているものもあるかもしれない。


 

そんな風に想像力を働かせながら、人との関係を築いていくことも大切かもしれません。


 

PC作業多い人は一時間に一度は席を離れたり、遠くを見たり、肩を回したりしてくださいねーー!というアドバイスと共に、

記事を終えたいと思います。


 

お読みいただき、ありがとうございます。