府中市でのお試し暮らし体験記。

前回は府中市の名前の由来や歴史について書きました。

その際に何度か触れた府中市歴史民俗資料館(以下、民俗資料館)について書きたいと思います。

ここは本当オススメで、いわゆる観光スポットなどではないと思いますが、府中市に訪れた人にはぜひとも行ってほしい場所です。

 

まず民俗資料館そのものについてですが、この建物は

1903年(明治362月、芦品郡府中町に新築された芦品郡役所庁舎

のようで、写真からわかるように

洋風と和風が折衷された建物

となっています。



『広島県の歴史散歩』によると

 

漆喰の壁に隅石飾り、銅蛇腹や窓枠・庇・玄関の飾りなど外観は建築時のままであり、明治後期の擬洋風建物として文化財的価値が高い

ようで、素人ながらその高貴な感じ?を感じ取ることができました。

当時にこうした装いの建物はおそらくほとんどなかったと思われるので、真新しく、存在感があっただろうなという想像がされます。

民俗資料館の説明がされている看板には

街のランドマークのような存在だったので、1976年頃取り壊しが決まった時、それを惜しむ多くの市民の尽力により移築保存が叶いました

とも書かれてあり、市の重要文化財としても登録されていることから、市民に愛され、大切に使用されていることが伺えます。



郡制は短命に終わったこともあって、明治時代の郡役所庁舎は府中市よりも西では熊本県の1棟を除いてここだけともその看板にはあるので、その意味では客観的に見ても貴重な建造物だと言えそうです。

そうした建物が府中市の歴史を伝える資料館として使用されていることは、なんだかセンスがあるなぁと個人的には感じます。
 

館内には発掘調査による出土品が展示されていて、古代の国府の様子・国府の庁舎の構造がどのようなものだったかといった内容もあれば、出土した道具や陶器(土器)などから国府の役人たちがどのような仕事・生活を送っていたかがわかるようになっています。

当時の役人の位ごとの衣装や、平安時代の女性が「国司に任命された父や夫と一緒に、都から国府に赴いた」ことから十二単が着用されていたようで、その展示もあって、実際に羽織ってみる体験も(確か)させてくれるそうです。




こうした展示品はもちろんですが、こちらの魅力は館長さんの説明でして…もうそれがめちゃくちゃ楽しくて、とてもためになるのでした。

地域のことを知りたいという人は訪れること必須だと思います(真っ先に行ってよかったなと改めて思う)。

館長さんの話は残念ながらすべてを覚えていませんが(録画して館内で流せばいいと思う!!とか思ってます)たとえば

(亡くなった人の今で言う棺桶に)土を盛る前に、最期の別れの儀式か、器を置いて、壺を置いて手を合わせたか、また、そうしたらその器を割ってそれも一緒に土をかけたそうだ。

といった古代の人々の風習・祈りなどが感じられる話をしてくれたり、

国府は役所だから、文字を書くことのできる人がいて、だから硯が出てくる。銅の印鑑もそう。年貢をはかる米1合分のものも。

と、国府の人たちの生活、その役割がわかる説明を教えてくれました。


出土品の説明(展示)でも、枯れた井戸には水への感謝と疫病時には疫病退散を願って埋め、そこに器を並べて祈りを捧げたり、国府ならではのものとして役人の7つ道具があり、当時の役人の事務用品として硯などが確かに見られたり、器や瓦が朱色に塗られているのは儀式で高貴さを演出していた表れであったり、と興味深い内容が説明されています。当時の人々がどのように暮らしていたかの一辺がなんとなく想像できるようです。




ちなみに、現在放送されているNHKの大河ドラマ『光る君へ』でオウムが出てきていますが、その時はピンとこなかったものの館長さんが

オウムを愛でていた

という話を確かしていて、それは歴史考証の視点からも確認できるという話なのかなと感じていたところでもあります。館長さんすごすぎ。

 

この地がこのように高貴な雰囲気であったのは、そもそも備後国と呼ばれているところからも説明ができそうで、民俗資料館内の説明では備後国というのは吉備(岡山県の範囲)の後ろ側ということから呼ばれた名であり、備後国は

平安時代中頃には芦田郡・品治郡など14郡があり、"上国”とランク付け

されていたところだったようです。

国府として以外にも寺・社・道路なども多くある町並みで、館内ではそうした展示もあり、多くの人がこの町に動員されていた場所だったということがわかります。

 

ただ、栄枯盛衰ではないですが、館内には国府の衰えについても言及されており、それは今の政治の腐敗の話ともそう遠くない内容だったりしました…。

展示を引用すると、

平安時代中頃、(略)国守(受領と呼ばれる)は腕次第で税を徴収し、政府に納めることを請け負うようになりました。しかし、しばしば不正に蓄財し、任期が終わって再び勝手知ったその国の受領になりたがり(重任)、他方、赴任せず(遥任)代理人(目代)を派遣し、実務に長けた地元の有力者を雇い(在庁官人)、都に住んだまま甘い汁を吸う者も多く、国府は留守所と呼ばれました。こうした政治の腐敗体質は律令国家体制を破綻へと向かわせました。

とあります。その説明の最後には

これを現在に置き換えてみるということが、歴史から学ぶということだろうと思います。

とあって、本当にその通り…とうなづきまくってしまいます。

館長さんは

国府の役人たちは宴会をよくやった。今も昔も変わらず食事の席で、庶民の知らないところで物事が決められていく。その皿は赤く塗られて高貴に見えるようにしていた。それを終えると外にいる今で言うホームレスの人に残り物をあげ、器を土に埋めた。だから一箇所にたくさん器が出てくる

「都から国府に送られてくる役人は4年で戻る。それが今も選挙は4年となってる名残」

といったこれまた今とつながる政治(システム)の話をしてくれたり

十二単の前は女性もある程度地位が高かった。動きやすい服装だった。十二単になってから、動かないで静かにしてるものとなっていった

といった、これまた残念な今の女性差別・家父長制社会とつながるような話などもしてくれました。

私達はこうしたことから学ばないといけないのだろうと、それが教訓だろうと思うものの、なかなか進歩しない政治(というか自民党系)・社会に改めてうんざりさせられつつ、歴史は確かに現在と地続きでつながっていることに思いを馳せられる貴重な経験をさせてもらったなと感じています。

館内には、発掘された鳳凰の鬼瓦も展示されており、そこには

鳳凰は中国で尊ばれた想像上の鳥で、よい政治が行われていると現れると考えられていました

ともありました。



いつになったら鳳凰が現れる国・社会になるだろうか…と思わされながら、、いろいろ考えさせられます。

館長さんとはその他にもいろいろお話をしたので、それについては次の記事で書きたいと思います。

地域の民俗の大切さを痛感しながら私は生きてきましたが、ここでまたそういう学び・経験をさせてもらえたことには心から感謝です。

何かを変えていくという営みは相当な時間とエネルギーが必要なんだなと改めて思わされるものの、それこそ歴史から学べる何かが大いにあるのではないか、とも思うのでした。