ダージリン急行 |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー


ダージリン色の光

『蒼の中のオレンジ』



次々に電車がやってくる東京は山手線の電車。
ラッシュ時は3分間隔、
通常でも5分ぐらいで次の電車がやってくるので、
たとえ1本乗り過ごしそうになっても、
ダッシュで電車に飛び乗ることはない。
「すぐに次がくるから」。
そもそも山手線のホームで「走る人」は
日本人だけで外国人にとっては奇妙な風景に映るらしい。
私は元来がノンビリ屋なので走ることは滅多にないけど、
それでも時々「この電車に乗らなければっ!」と
階段を駆け上がり、ホームを突進することがある。
けど、それは「約束に間に合わないから」というより、
「この電車だ!」と妙な使命感を抱いて、
ヒラリと電車に駆け込むのだ。
理由はハッキリしているようで、実は拠り所はない。
しかしあの、取り憑かれたような「必死さ」を
落ち着いて思い返すとき、こんなことを想うのだった。

生きるということは、
常にY字路の前に立たされているようなもの。
右か左か、どちらの路をえらぶかで未来が変わる。
大きくいえば就職や結婚やわが子の将来、
小粒にいえば「米を食べるべきか、パンにすべきか」
「もう少し寝ていようか、それとも今起きるべきか」など。
Y字路は大木の根っこのごとく、
太いものから細いものまで、
脈々と分かれ分かれになっていて、
人も同様に無意識にチョイスを重ねて時間を泳ぐ。
そうして“ある時”、そう、
停止状態を脱しよう! なんて
強固な意志を持ち合わせている時ほど、
「今しかない!」とガバッと人は路を選ぶもの。
「この電車だ!」と、すぐに来る山手線に飛び乗るように。

アンダーソン監督の『ダージリン急行』を観た。
なんと今年初めて観た映画だったけど、
すごく愛おしい1本。今年はこの映画1本になったり?
それもいいかも、だって共感する!
映画の中に登場する三兄弟のひとりが、
インドを一路走る急行列車に飛び乗るシーンに!!!!!
彼は得体の知れない使命に突き動かされ、
「生命の根源の国と言われるインド」へおもむき、
急行列車に飛び乗る!!!!
そのシーンの必死さ、可笑しさときたら!!!!
今の私の姿とだぶるようで涙がジワ~~汗
彼が飛び乗った急行列車は蒼い車両の海の色。
果てしない海の底の色、夜の空の色。
底知れない未来が待つ列車に
間一髪、彼は飛び乗ることに成功する、だけど、
時を同じく“急行”を追いかけ間に合わなかった人物がいる。
これもコミカルで可笑しい、
年齢ではなく縁だ、人生だなぁと想うわけで。

列車に飛び乗った男性を待つのは、
縁遠かった2人の兄弟が待つ狭いコンパートメント。
広いインドの大地を悠々と走る「ダージリン急行」の小部屋で、
私と等身大の旅が始まる。
小部屋という限りある空間なのに、列車は大陸を行く。
それが重要な人生の岐路になるとは、露知らず。
このギャップこそ、人生ではないかしら。
狭い空間を制すしてこそ、世界が見えるんや!


アンダーソンの映画は『ロイヤルテンネンバウムス』も観ている。
『ダージリン急行』と共通しているのは、
家族の絆。つまり最小単位の人と人の繋がり。
現代社会を「希薄な人の繋がり」と唱えるなら、
家族は急行列車の密室コンパートメントだと私は思う。

しかし、列車を追いかける行為を
山手線「新宿駅」でやったなら、
まちがいなく「今日のトップニュース」になるだろう。
まず、出来ない。
それだけTOKYOの人間は急行を見送りがちなのだ。
あまりに列車のスピードが早過ぎるわ、人が多いわで。

はたしてTOKYOに「ダージリン急行」を追うものはいるのか?
ダージリンとは、インドの古都。
ダージリンティーが有名で、
茶は明るいオレンジ色で、それは太陽の色、
映画『ダージリン急行』は蒼い車体だった。けれど、
乗客の肌の色は太陽の色のオレンジ色に染まっていた。
あらゆる国籍を超えて・・・。




★★★★★☆☆ 7点満点で5点
映像をデザインする、
映画をデザインするアンダーソン監督。
デザインとは、実用面が最重視されるから、
必要でないものは引き算されていく。
『ダージリン急行』の場合は“物語”を引いた、ような?
手垢のついた言い回しだけど、
ある意味で行間を読む映画、日本映画で言えば「小津的」。

娯楽として映画を楽しみたい層と
オリジナルな表現を観たい層とでは、
この映画の好き嫌いは分かれると想像するし、
アンダーソン監督は紛れもない「映像おたく」だと私は思う。
それも玄人受けする映像センスで、
スクリーン全体をデザインしてしまうんだから、
「映画好き」は拒否反応を示すだろう。
おそらく「表現おたく」がハマる世界。

私は好き。
登場する三兄弟のダサイ感じも、
インドの現地の人の服装ですらファッショナブルに、
アンダーソン色に染められる。
全編が雑誌『STUDIO VOISE』か『Casa』をめくっているかのよう。
死と生が隣り合わせに位置する「インド」の姿はそこになく、
死ですらデザインされ、クリエイトの結果として映される。
衣装や小道具、大道具も、音楽センスも極めてリッチだ。
たぶんこれは物に恵まれながらも
どこか心寂しい現代人を彷佛させるし、
東京で暮らす人間とも一致する。
恵まれているのに不安。この贅沢さ!

死は哀しいものではなく旅立ちである。
インドを旅したことははない私だけれど、
かつてバリ島ウブドに滞在した際、
地元の人は口々に話してくれたっけな、
それは旅人の私には目からウロコだった。
彼らは死を舞で弔い、火で愛でる。
「死は終わりでなない、始まりを祝うもの」
ウブドでは葬式は新たな冒険を祝う祭りだったし、
かつて村社会だったニッポンも同じだった、
けれど、それが自然がくれる病や老いであれば祝いも良し、
一方で現在は貧富の差や身分格差で死を強いられる。
だから『ダージリン急行』は、
ただただ デザイン世界の桃源郷として映り、
苛立ちをも伴う。実は私もそうなのだ。

私はアンダーソン監督の映画に惹かれる。
けど、血なまぐささや死の葛藤こそ、
走り去る急行列車に飛び乗る決心だと思うので、
ブルジョア的センスには、やや生緩さを感じるのも事実。

例えば登場する三兄弟がインドの旅の間、
ずっと持ち続けるスーツケースに私のジレンマが象徴される。
スーツケースは一目でヴィトンだと分かるブランド物、
インドを旅する者としては高価過ぎて浮きまくり。
ここにアンダーソン監督は
オリエンタリズムの投影をしているに過ぎない、
という見方もあるにはある。が、
欧米人や「先進国といわれる国々」の悲哀の現れ、とも思える。
人が欲しいのはモノではなくLOVEなのだ、
それを求めて三兄弟は列車で旅に出る。

映画のラスト(クライマックスではない。この映画にクライマックスはない)で
いったい彼らはヴィトンのスーツケースをどうしたか?
それは『洋式美』との決別。
インドで彼らは死を受け入れる。
だから私はアンダーソンが好きなのだ。



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