プーク人形劇場-2 |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー


『人形遣い』

~昨日のつづき~


幸いなことに育った土地の風習ゆえ、
人形浄瑠璃あるいは文楽という
日本独自の人形演劇に親しむ機会が
幼い頃から私にはあった。けれど、
それゆえ「基準ができている」せいで、
プークの人形演劇
始まってしばらくの間は、ついつい
色メガネで観てしまった、これは いただけない。
というのも日本の人形演劇と、
西洋のそれとでは大きな違いがあって、
まず それに戸惑ってしまったのだ。

西洋には、指人形から 糸で操るものまで、
さまざまな仕様の人形があるけれど、
先日のプークの「おとなのための公演」では
人形遣いが黒子になって、
1メートル程度の人形を動かすというもの。
この点では日本も西洋も両方共に似ているが、
文楽では演者が、人形遣い・音楽・語りと、
三つにハッキリ分かれているのに対し、
プークの人形遣いは演技も動きも、
ひとりの人間が行う。つまり、
人形遣いの「舞台裏」も同時に見てしまうため、
いくら顔をベールで隠しているとはいえ、
私はどうしても人形よりも
それを使っている人間の動きや声に目がいってしまい、
正直なところ、最初は物語にのめりこめなかった。
しかもプークの劇場が こじんまりしていることもあり、
(大好きなスペースなんですが)
人形 + 演者が すぐそこに立ってる ものだから、
まずは物語とは違う方向で感激してしまった。

とはいえ、人間とは慣れる動物なのだ、
いつしか黒子さんたちは消え、
変わるはずのない人形の顔が笑ったり怒ったり、
泣いたり、呆れたりするようになる、
こうなると もう舞台から目が離せない、
こんな内面の変化が我ながら、おもしろくって。

人形劇だけでなく、舞台という生の表現が
小説や映画と異質な点は、なんといっても場面設定が
1場~3場いう制約の元で展開することだ。
それゆえ、観客が納得するだけの演技が求められるし、
観客の方にも想像力が求められる。あるいは、
想像力を刺激してくれる演出も必要になってくるが、
これには観客の好みの問題もあろうし、
「肌に合う」「合わない」もあるだろう。

ただ私の場合は、
人形劇という いまどきの主流ではない
まったくの少数派のエンタメに汗を流し、
切磋琢磨している人形劇団プークの姿勢に
とっても大事なことを共感した。
「これが好きだ」という気持、
これに勝る教師も支えもエネルギーもない、と。

プークの井上ひさしさん原作、
『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は
人の一生と、桜の短い花の時期をかけていて、
きっと 多くの“いい おとな”が観たなら、
「人生なんて あっという間なんだから、
 好きなことを好きなようにやった方がいい」
そう思うはず。ただ、
「ん??」と疑問に思ったこともあるにはあった。
音楽を使うタイミングや「マリオネット」の楽曲の
チョイスなどが気になったけれど、
これも私のマリオネットの曲への思い入れが
強いだけかもしれない。

なお、プークと「マリオネット」
おとなのためのコラボ公演は
来年のお正月にも予定されている。なんと、
「マリオネット」が進行に合わせて生演奏されるそうで
新年早々の5日公演だけど、これは気になる。
(先日の公演では録音を使用)
ちなみに、その先行公演として新年2日~4日には
「子どものため」の公演もあるらしい。

すごいな、「マリオネット」もプークもエネルギッシュだ、
ジャンルは違うけれど
こういう人たちがいるから「私も」と思える。





●人形劇団プーク
(『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は 11/22まで公演中)

●アコースティックユニット「 マリオネット」