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今は地味なアラフォー主婦ニコニコ飛び出すハート
母はストリッパー、父は男優。
そんな昔の話✍️

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前回はこちらから💁‍♀️


ストリップ劇場を巡業している私の両親にも、ちゃんと家があった。
西新宿のマンションだ。
子供の頃の遊び場といえば中央公園かNSビルだったらしい。
でも、父の両親と同居するために、東京の隣県へ引っ越した。


まだ歩道はコンクリート舗装されていなくて、それがショックですごく記憶に残っている。
コンクリートジャングル(古)で生まれ育った私には、砂利道が不快で仕方がなかった。
ろくに運動もしてこなかった私は、度々転んだ。

敷地内同居を始めた父の両親は、母を疎ましく思っているようだった。
祖父は寡黙な人だったが、祖母は怒鳴るように喋る人だった。
畑仕事だと遠くまで声が届くように、そう話すのが癖になるらしい。(って父は言っていた。
祖母が話し始めると私はビクビクした。
「この人はまた怒っているのかしら」と。
それから円形脱毛症になったのは記憶にないが、当時の私には巡業の方が肌に合っていたらしい。


「おじいちゃま」「おばあちゃま」
と呼ばなければならなかったし、
お風呂は祖父母宅にもあったが、うちを使う事になった。
なので玄関の鍵は開けっ放しで、いつ祖父母が来るかもわからない。


5LDKの二部屋は、祖父母のものとなった。

「パパは長男だから仕方ないの」
と、度々母は言うようになっていた。
もちろん私には意味がわからなかったけれど。


夕飯が終わると「おばあちゃまのお部屋に行っておいで」と行かされた。
当時は歌謡曲を聞きながら一緒に口ずさんだり、歪な家庭の中で無邪気でいられた時間だった。


そんな中、私の両親は夫婦一緒にストリップ劇場の巡業で生計を立てていた(と思う)ので、巡業がない時は二人ともお休みだ。
お休み期間の週末は、両親とストリッパー仲間のお姉さんと新宿のディスコやカラオケ、六本木の金魚に繰り出した。

 

ニューハーフのお姉さんに囲まれて困惑した。
そもそもニューハーフの意味なんて、幼児にはわからなかったし。
そんな私を両親やストリッパーのお姉さんはからかって、またお酒が進むのだった。


金魚やディスコ、カラオケにスナック。
大人の付き合いは退屈だったけれど、田舎よりは肌が合う気がした。
ディスコは子供からしても楽しかった。気がする。

テレビ番組で特集されていたストリッパーのお姉さんとは、一緒にハワイ旅行もした。
お姉さんと、マネージャーと、私の両親と。
マネージャーと言っていたけど、きっと恋人だったんだと思う。
お姉さんも優しかったけれど、私はその恋人のお兄さんによく懐いていた。
お兄さんだけは、子供目線で話してくれたから。
私もお兄さんには自分の気持ちが言えたし、甘えておんぶもしてもらっていた。
いつの間にかお姉さんカップルとの交流はなくなってしまったけれど・・・



【5へつづく】