昨夜の続きである。
稲賀敬二著『文学誕生-日本的教養の研究 奈良・平安篇-古代・王朝人の知的生活と物語生産システム-』PHP 1983.3)は、「村上天皇と兵衛の蔵人との対応は、天皇と臣下、奉仕される者と奉仕する者という関係を離れて、才能を引き出す機会を作る者と、その機会をとらえて才能を伸ばす者という、いわば教師という生徒の関係との関係をそこに見るような気がする。才能を引き出す(educe)者と、引き出される者との関係である。これをもっとはっきり示すのは、次の話である」(116頁)と言い、掲出本文の後半部分について、次のように述べている。
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同じ村上天皇が、同じく兵衛の蔵人をお供にして、殿上の間におられた時のこと。火櫃から煙が立っているのを目にされた帝は、「かれは何ぞと見よ」と、彼女にお命じになる。彼女は見に行き、帰って来て、こう説明する。/わたつ海の沖にこがるるもの見ればあまの釣りしてかへるなりけり/「海の沖の方を漕ぐものをよく見たら、それは漁夫が釣りから帰るところでした」-歌のおもての意味はこうなる。歌の裏の意味は、「おき」に、海の「沖」と赤くおこった「炭火(おき)」をかけ、「こがるる」に、「漕ぐ」と火に焼ける様の「焦がる」をかけ、「かへる」に、「帰る」と「蛙」をかける。「火で焼けて煙をあげているものの正体は、蛙でした」という返事になっているのである。この話には「火櫃に煙の立」っていたのは、「蛙の飛び入りで焼くるなりけり」と説明が加えてある。/ただ、ここで注意しておかねばならない。「火櫃」は冬の暖房用に用いられる具である。『禁秘抄』によると、殿上の間には、調度として「火櫃二」つがおかれる定めであるが、これは「十月ヨリ三月ニ至ル、四月二至リ撤ス」とあるから、4月以降は殿上の間に火櫃はない。しかるに蛙の出回るのは、ちょうどこの火櫃のない季節に当る。一方、火櫃に火のおこしてある冬期、何かの事情で冬眠から目ざめた蛙が、のこのこと庭を横切り、階を這いあがり、殿上の間に侵入して、しかもうまく火櫃の火中めがけてダイビングを試みて焼身自殺をとげる確立も、きわめて少ない。/蛙が自分の意志で火中に飛びこむはずがないとすれば、蛙は人為的に火中に投ぜられたと判断せざるをえない。村上天皇が生きた蛙をたわむれに火中に投じたりなさるはずはないから、これはミイラになった蛙の死骸だったであろう。おそらく村上天皇は、先の、器に雪を盛り梅の花をこれに挿そうと、庭の梅の木のもとにお立ちになった時、枝につきさされた蛙のミイラに目をおとめになり、これも何かの役に立つかもしれぬと、お持ち帰りになったのだろう。木の枝に蛙や昆虫を突きさすのは、もずなどがよくやるいたずらである。/村上天皇は、このミイラの蛙をあらかじめ火中に投じて、煙の昇るころあいをはかって、兵衛の蔵人に、煙の正体の偵察を命ぜられたものと推定される。/このような推定は、事実か否かを確かめるすべもないが、もしこう考えた場合、村上天皇は、まず兵衛の蔵人がどんな面白い報告をするか楽しみにしておられたであろう。同時に、村上天皇は、兵衛の蔵人がその才能を発揮できる場面を人為的に準備されたことにもなる。村上天皇は、宮廷生活の中で、そこに仕える女性たちの才能を引き出すための教育者・育成者(educator)の役割を果たしておられたことになる。(116~118頁)
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明日は、これまでの逸話から、姫君(宣耀殿女御芳子)と女房(兵衛の蔵人)との「教養」の違いについて考えてみたい。