丸谷才一著『思考のレッスン』(文藝春秋1999.9→文春文庫2002.10)が出た時、樋口芳麻呂先生のことが書かれてあるのを見て驚いた。もちろん、樋口先生の『王朝秀歌選』(岩波文庫1983.1)と、樋口・後藤両先生の共著という、僕にとってはまるで宝物のような『定家八代抄-続王朝秀歌選-』上・下(岩波文庫1996.6~7)が丸谷氏の企画によるものであること、丸谷氏の大著『新々百人一首』(新潮社 1996.6→上・下 新潮文庫 2004.11)のゲラ刷りを研究室で新編国歌大観を引きながら、樋口先生がチェックしておられるお姿をお見掛けしていたことなどから、ふたりに永年の親交があることは知ってはいた。先生のお名前を丸谷氏が出すのは自然であろう。しかし、僕が驚いたのは、次のようにあったからである。
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(前略)樋口芳麻呂さんの、「定家撰百人一首説」。もともと『百人一首』は定家撰と伝えられてきたわけだけど、明治以後、学問の世界ではそれが俗説として退けられていた。
これは承久の乱で流罪となった後鳥羽院、順徳院の歌が、なぜ定家撰の勅撰集『新勅撰』には入ってなくて『百人一首』に入っているのかというミステリーのような話がからんで、非常におもしろい議論なんですが、樋口さんはそれを実にうまく説明して、「やはり定家撰である」という結論に達した。これにはかなり説得力があって、どうも僕は本当らしいなと思っているんです。
樋口さんの論文は重厚な実證的なものですが、まるで謎解きみたいでね。いわゆる黄金時代の探偵小説のような感じ。僕がいつかそう言ったら、「実は一時、ハヤカワ・ミステリーばかり読んでいた」と打ち明け話をなさったことがありました。こんなに熱中しては勉強ができなくなると思って、やめたんですって。それが学風に出てくる。おもしろいね(笑)。 (文春文庫 40~41頁)
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樋口先生の論文の面白さについては、片桐洋一氏(「百人一首雑談」『リポート笠間』第12号 1975.10)が既に、「樋口芳麻呂氏はすぐれた学者だが、地味な学風で、多くの論文があるが素人が読んでおもしろいというものは少ない。しかし、この一連の論文(「百人秀歌から百人一首へ」『文学』昭和46年7月号、「百人一首への道」〈上〉〈下〉『文学』昭和50年5月・6月号)はおもしろい。むしろおもしろすぎると言ってよい。「新勅撰集」撰集から「百人一首」編集に到る定家の悩みや苦しみが、新資料を含む数々の資料を駆使しつつ生き生きと物語られるのである。これをこのまま使って小説が書けるのではないかと思うほどにおもしろいのである」と述べているので、丸谷氏の評価が殊更新しいわけではない。僕が注目したのは、樋口先生がかつてミステリー小説を好まれたという事実であった。樋口先生は恩師である。博士課程時代に大変お世話になった。しかし、これは初耳だった。そして思い出したのが、後藤先生も無類のミステリー小説好きであったことだ。しかも、樋口先生のそれが過去形であったのに対し、後藤先生は最後まで〝現役〟であられた。そのことは、定年を迎えられた時、「これからは、縁側で好きなミステリー小説を好きなだけ…」と挨拶されたことからもわかる。
定年の挨拶と言えば、樋口先生のそれは「さっきから、みなさん、定年、定年と言われるが、さて、誰のことかいなあ…と、研究に定年はないので……」というものであった。これにはハッとさせられた。そう言えば、「ええっと、研究者としては私はまだ若手なので…」と先生が仰るのを聞いたことがあった。70歳目前であられた先生がである。その後、80歳を超えられたにも拘わらず、『隆信集全釈』(私家集全釈叢書29 風間書房 2001.12)を出版され、そのお言葉が嘘ではなかったことを証明されたのである。
定年後の後藤先生も、ミステリー小説の世界に耽溺されるのでなく、隠岐本新古今和歌集に関する学会報告をされ、『隠岐本 新古今和歌集』(冷泉家時雨亭叢書12 1997.4)を出された。『新古今和歌集の研究』(風間書房 2004.3)を出版された頃には、疾に80歳を超えておられた。こちらはそのお言葉が嘘であったことを証明された形となった。
過去形か否かの相違はあるが、ふたりの恩師に共通するのは「ミステリー小説好き」ということだ。これをもっと早くに知っていたらと後悔した。僕に決定的に不足していたのは、ミステリー小説の読み込みだったのである。(笑)