上野千鶴子が『サヨナラ、学校化社会』(太郎次郎社 2002,4 → ちくま文庫 2008.10)で、次のように述べている。
「(前略)東大生を教えていて私が面白いなと思ったのは、『ミシェル・フーコーがこんなことを言ってるけど知ってる?』と言うと、知らないとは口が裂けても言わないことです。知らないと言わないけれど、一週間後には読んでくる。京大生にも顕著でしたが、エリート意識はエリートを育てる効果をも持つ、と言われるのは、それがあるからです。/エリートは、自分がなにかを知らないということを自分で認めるのがイヤなのです。他人に知られるのはもっとイヤです。プライドが許さない。だから爪先立ちして生きています。そんな「困ったちゃん」がエリートなのですが、困ったちゃんのなかには、その爪先立ちの分をクリアーしてしまう能力をもったのもいます。/一週間後には読んでくる。そうやって爪先立ちしているうちに、いつしか身の丈がそこに届いている。これを独学といい、そうやって学んだ人のなかにはたしかにそういう能力をもった人もいて、そのことはバカにはできません。」(40頁 ※引用はちくま文庫による)
すぐ後で「ただし、そういう人は希有です。」(41頁)とは言うものの、東大「へ来る学生の母集団のなかには多少いい素材もまじってい」(41頁)ると、上野は述べている。2002年において、東大には無知を己の恥と考えるプライドある学生が少数ではあっても、まだ残っていたということになろう。実に羨ましい。と言うのも、愛知県にある某大学ではその数年前に既に〝珍種〟が出現し、当時、博士課程に在籍して3つの読書会を主宰していた私を驚倒させていたからである。即ち、「来週は芥川龍之介の『羅生門』です」と予告しても、読んで来ないばかりか、文庫本を持たずに現れ、堂々と「僕は『羅生門』読んだことないんですけど…」と断った上で、一番に、読めばわかるような質問をする猛者が現れたのである。その数は、一人や二人ではなかった。(昔は読んでない奴は出席さえしなかったと思うし、仮に出席しても堂々と発言することなど絶対になかったはずである)
現在の大学生はどうなのだろう。寡聞にして知らないけれども(無知を恥とも思わぬ大学教師なら5人ほど知ってはいるが…)、現在の高校生から類推すると、背筋が寒くなるのは僕だけではあるまい。