ほーんとに余計なことbkr...

ほーんとに余計なことbkr...

Hoonto ni yokei na koto baqkari desu ga nani ka (´・ω・`)?

「海灯祭を祝して」を合言葉のように挨拶語にすることに対する違和感。

(「海灯祭を祝して」という言葉自体は何も問題ないです)

 

この話題はいったん引っ込めたのですが、やはり見過ごせないので再掲載します。

 

ゲーム『原神』の恒例行事、海灯祭。そこで交わされる「海灯祭を祝して」という合言葉。 多くのプレイヤーが疑問を持たず、公式な原神オリジナルな挨拶として受け入れているこの言葉に、私はどうしても拭いきれない違和感を覚えます。

これは何も問題ないです。 (宛名のところに本文を書くなよというのは別の話としてww)

「海灯祭を祝して」と言ってこのポストカードを書いているわけです。ポストカードという帰着点がちゃんとある。「海灯祭を祝してこのカードをあなたへ贈ります」で完結する。

 

不自然なのは、パイモンが別れ際に「じゃあ、海灯祭を祝して!」というのはアホだろという話です。「海灯祭を祝してね」とお願いしているわけでもない。祝して~の未完の言葉を独立させて挨拶語として完結させちゃってるわけです。間抜けでしょ?

 

これはほんとに微妙な感覚で、これは慣れてしまうと何が変なのかわからなくなるくらいの微妙な話です。だからこそ、どうでもいいと曖昧にしておくべきじゃないと思う。(理系の人ほど、けげんな顔をして「はぁ?何がおかしいの?」とか言いそうですけどね)

 

同じようなことで、これは方言なのかどうかはわからないのですが「~していただけると幸いです」と言うところを「~していただけると喜びます」という表現。普通、「喜ぶ」のは本人ではなくほかのだれかだと思ってしまうので、こう言われると心の中で「え?だれが?」と思ってしまう。そんな行き違いの話にも似ている。要は微妙です。だからぐだぐだ書くことになってしまうわけですが。

 

これは単なる「揚げ足取り」ではなくて、日本語という言語が持つ論理構造が、なし崩し的に壊されていくことへの「危機感」を持つべきだと言いたいわけです。(・ω・)

「海灯祭を祝して何だというんだよ」と言いたくなる理由

 意味が通ればいいのか?


日本語の文法において、「〜を祝して」は後に続く動作を修飾する言葉です。
海灯祭を祝して、乾杯する。
海灯祭を祝して、詩を詠む。あるいは「海灯祭を祝して」と題して寄稿文を掲載するとか、冒頭に挙げたようにカードを進呈するなど。何なら、投げキッスでもいい。

このように、本来は「~して」というのは「目的」や「状態」を示す中継地点に過ぎません。しかし、パイモンなんかの言う合言葉はそこでプツリと途切れて独立しています。だから間抜けに聞こえるんです。初めてこの言葉を耳にしたとき、私は無意識に「……で、何?」と帰着点を求めてイラッとしてしまうわけです。(今までの話が倒置して海灯祭を祝してに続いてるんだと考えればいい?それは強引過ぎる。全然関係ない話をしていたわけだし)

 

例えば、魈はみんなと別れるときはスッと姿を消すわけです。別れ際に「海灯祭を祝して」と言い残して消えたら。魈にとって海灯祭を祝うことは「消える」ことなのか?なわけないw

日本語には存在しない「挨拶語」の形式
 

日本語の挨拶を振り返ってみてください。
体言止め型: 「ご武運を(祈ります)」「良いお年を(お迎えください)」
完結した述語型: 「おめでとう(ございます)」「こんにちは(今日=today は……)」
慣用句型: 「謹賀新年」「寒中お見舞い」
 

これらにはすべて、省略されていても文脈的な帰着点があります。 しかし、「〜を祝して」という接続助詞「て」で終わる挨拶は、日本の言語文化を探しても用例が見つかりません。これは、本来「繋ぎ」であるはずのパーツを、無理やり「終止形」として扱っている。

 

言葉は生きている。柔軟に考えていいというのは仮名に従うローマ字でも私が言っていることではありますが、違和感があるというのは見過ごせないことです。なにより間抜けに聞こえるという最初に感じた直感は大事にしたほうがいい。

 

特に懸念を抱くのは、「海灯祭を祝して」という題名で詩を書くなり文章を書くということは普通によくあるだけに、それを独立した挨拶語に汎用するという「微妙に違う」ことをやらかしてほしくないわけです。なぜなら、そういうきわどいことをすると日本人の感性が麻痺するからです。

 

例えば、助詞の「へ」と「に」はどっちでもいい場合もあるけど、この場合はこうでないとおかしいというのが必ずある。そういう違和感はものすごく大事で、それを不慣れな外国人にあわせてないがしろにしていると言葉が壊れる。


「雰囲気」に飲み込まれる言語感覚への危惧


最も恐ろしいのは、この不自然な日本語が「ゲーム内の設定だから」「みんなが言っているから」という理由で、あたかも「正しい日本語」であるかのように流通してしまうことです。

「みんなが納得しているから、これでいいんだ」という空気の中で、この違和感を「ないこと」にしてしまうのは、言葉に対して、日本語に対してあまりに失礼ではないでしょうか。

 

ましてや、ミホヨという中国の一企業の分際であんまり日本語に変なことしてくれるなよという思いもある。たかがゲームと言うなかれ。そこそこの人気ゲームで、みんなが「海灯祭を祝して」と当たり前のように言っているのを見ると、正直言って愉快ではない。

実を言うと。奔狼領も「ほうろうりょう」と読むのだと公式が押し切っているところも私は許していない。いくら指摘しても公式見解だとつっぱねてくる。この傲慢さはどこから来るんだろう。何様かと私は思ってしまいます。

 

「海灯祭を祝して」というフレーズへの違和感は、私が変人だから抱くものではありません(小うるさいやつという自覚はありますけど)。日本語の論理構造を守ろうとする、健全な防衛本能だと思っています。

創作の世界だからこそ、言葉の響きだけでなく、その構造が持つ意味を大切にしてほしい。そう願うのは、果たして私だけでしょうか。

 

これは原神という作品内のオリジナル表現だから、という説明で片づけてしまうと、日本語の側の構造的な違和感が見えなくなる。創作の中で使われる表現と、日本語の挨拶として流通する表現とは、本来は区別して考える必要がある。だからこそ、ここではっきりと違和感を問題にしたいわけです。くだらないことをぐだぐだ言ってるわけじゃありません。

 

例えば、行秋を日本語読みするのはおかしい。でも、それはそれでおもしろいし、だれでも気づくことだから感性を歪ませるわけじゃないでしょ。清泉町(きよいずみちょう)なんていうのがいきなり出てきても「おもしろい」で済ませられる。そういうことに文句言ってるんじゃないんですよ。

 

原神が始まってもう5年もたっているのに、毎年海灯祭が来るたびに繰り返される苛立ちw

原神の運営側からしたら、原神独自のおもしろい挨拶語を「創作した」ような気でいるのかもしれない。残念。それ、日本語として間抜けですよ。

 

北野武の映画「その男、凶暴につき」はインパクトの大きさから広告のキャッチコピーにも使われた。これは後半を「意図的に書かない」という高度なテクニックです。

それに対して、「祝して」という表現はむしろ次に続く部分が重要なわけですよ、前振りからの「乾杯」なり何なりが続くはずとみんな思うわけです。そして省略される部分こそがメインなのに、そのメインを省略しちゃってる。海灯祭を祝して曲芸の皿回しをやりまーす、かもしれないじゃないですか。そこに何が来るかわからない。「あえて省略した」のではなくて日本語っぽい適当な表現がないから前振り語を安易に挨拶語として「流用」しているだけ。その「軽薄さ」がいらっとくるわけです。
 

「今日は!(こんにちわ)」というのはそれ以下の挨拶が省略されているけど、以下に続く叙述部分は完結していて言わなくてもいいことだから省略してる。

 

合言葉なんだから何でもいい。何ならABCでも何でもいいというのはわかる。

何でそこにわざわざ「~して」とくっつけるんだよ。これを言ってるんですが。

 

医学的に言うとどういう状態かとChatGPTに聞いてみたら、

「本来は特定のレセプターに結合して作用するリガンドが、結合条件を失ったまま血中に放出されているような状態」 だそうです。ちんぷんかんぷんですが。

ただちに病気になるわけでもなさそうですが、キモくね。(笑)

 

もっとわかりやすく言うと、「あけましておめでとう」を「あけまして。」で止めてるようなもの。こう言えばさすがに「どうでもいい」とは言えないでしょう。「あけまして」なんて言うくらいなら「あけおめ」のほうがよっぽどまし。


この違和感を指摘すると「空気を読まない」とかいって、文句言いたいだけだろとか言う。

 

何でみんな変だと思わないんだろうか。言われたものを素直に受け取り過ぎる。

おかしいことは「おかしい」と素直に言おうよ。そんなこと言ったらめんどくさいやつとか荒らし扱いされるとか気にすんなって!

 

じゃ、どう言えばいいんだよと言われそうですが、そもそも日本ではクリスマスになっても合言葉みたいなものはないので、英語から直輸入してそのまんまメリークリスマスとか言ってる。

 

要は、日本では正月に「あけましておめでとう」と言うぐらいで、あんまりそういう合言葉みたいな習慣はないので、それを無理に翻訳しなくてもよかったんじゃないのか。せいぜい海灯祭を楽しんでねぐらいにとどめておけばよかった。それを「海灯祭を祝して」といちいちうるさいんだわ。日本語のイメージをぶっ壊すんじゃねえよと思ってしまう。感覚の摩耗が怖いんですよ。

 

強いて言うとすれば、「佳き海灯祭を!」ぐらいでしょう。これなら、省略されていても文脈的な帰着点があるからきちんと収まる。海灯祭を祝して……という宙ぶらりんな収まりの悪い言葉ではない。こういう感覚は大事ですよ?どうでもいいことじゃないでしょう。

 

いや、帰着点ということなら何とでもあとづけできる。今こうしてお互いに会っているということ自体が帰着点だと言うなら、海灯祭を祝してイェーイ!みたいな感じとも取れなくはない。ただ、挨拶語として「~して」で目的を省略して中途半端に終わるものは前例がないのは事実。

 

あるというなら教えてほしい。私の認識不足として素直に認めますから。(´・ω・`)

 

例えば、「はじめまして」というのは長い歴史をかけて固定化されてきた挨拶専用の言葉で、これ自体で完結している。これと同列に考えてはいけない。「勝利を信じて」とか「愛を込めて」もそれからどうするかが重要なわけじゃない。「愛を込めて何だというんだよとはだれも突っ込まない。言わんとすることは余韻として残る。これも共通理解としての基盤があって成立している。

 

対して、海灯祭を祝しての場合は全くこなれていない。祝して(という接続詞)、それからどうするのかが重要になる。そんな中途半端な挨拶語はない。いわば、これから贈ろうとする何かにつけるラベルとしての言葉に過ぎない。それをインスタント挨拶語として軽薄に流用している。

 

似たようなものとして、よく盛花に「◯◯さん江」というカードをつけるでしょう。そういうところで使うラベルに過ぎない言葉なんですよ。極端に言うとそれを挨拶語に流用しているようなものです。そう考えたらいかに間抜けかわかるでしょう。

 

原神としては「海灯祭を祝して」というのをオリジナルの挨拶語として流行らせたいんだろう。イベントで登場するキャラのほとんど全員にこれを言わせてる。でも、こんな間の抜けた挨拶を流行らせようとする原神内にいると思われる日本語オタクの傲慢さに心底腹が立つ。

 

……いやぁ、しかし、ここまでしつこく突っ込んでいる頭のおかしい人wwは私くらいなものかもしれないけれども、ここは曖昧にしていたらいけないと思うんですよ。

 

ちょっと大げさになるけれども、今おぼろげに感じている危機感は、どうも今の日本は海外からの「グローバリズム汚染」に対して緊張感を持って対峙する意識が弱いんじゃないか(自分を含めて)と思うわけです。もっと防衛力を増強していい。例えば、英語なら何も考えずにそのまま日本語に取り入れてしまう。昔の人は必死に翻訳しようとしてもがいてましたよね。

 

「海灯祭を祝して」も、言われてみればちょっと変だけど、まあ中国語を苦労して翻訳したんだろうぐらいに思って、まあまあで済ませていると思うんですが、もっと小うるさくていいと思う。それはクレーマーでも何でもない。文句と指摘の切り分けをきちんとしたほうがいいと思う。あんまりこういうところにケチをつけると、文句を言いたいだけのクレマーかと、すぐそういう見方をされてしまうのはおかしい。

 

言葉狩り、言葉警察は何かとネットでは嫌われるし、私も大嫌いだけど、そういうことじゃなくて、ん?と思った素朴な違和感を麻痺させられたまま流されないように緊張感を持って言葉に対峙したほうがいい(もちろんそういう自分も含めて)と思うわけです。

 

ものわかりのいい日本人、空気を読む日本人も美徳かもしれないけれども、それが必ずしもいいことばかりじゃない。

 

まあそういう自分もどうしてこうどうでもいいことばかり気になるんだかw。いや、こういう感性にかかわることだからこそ我々はもっと気にしたほうがいい。もっと高尚な難しい話、ストーリー考察なんていうのはAIのほうがよっぽど正確に分析してますよね。