よく生きるために、よく学ぶ

よく生きるために、よく学ぶ

関西の大学に通う学生が教育、歴史、芸術などについて、徒然なるままにつづります。
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すみません。
色々なパスワードを試した結果、やっとログインすることができました。


驚くべきことなんですが、あと二週間で、大学生活を送った関西をさります。
地元に帰って、社会人をします。

長かったような、短かったような四年間でした。
自分なりに、本当にマイペースに送ってきた四年間だと思います。

何を書きたいのかはわからないんですが
取り敢えず、手の赴くままに書きたいと思います。

僕は自分から出て行くタイプではないので
僕の世界は狭いものなのかもしれません。

おそらく、狭いものでしょう。
その反面、僕がじわじわと広げてきた知り合いの輪は、
どこにいても僕を受け入れてくれ、必要としてくれるものだとも感じています。
それは、誰にとってもベストパートナーでありたいし
少し上の普通でありたいと思い続けてきた結果と言えるかもしれません。

毎回、別れはひどく辛いものです。
そのあとにある出会いが素晴らしいものであることは
幾度もの経験の中で知っています。
しかし、その出会いがたとえなくなったとしても、今のままでいたいと思うんです。

すごく寂しい。
でも、すごく誇らしくもあるんです。
こんなに離れたくないと思えるつながりを自分は作れたんだって
離れたくないと思ってもらえるつながりを作ることができたんだって

何度も別れの辛さを味わえる。
これって素晴らしい事なんだなって思うんです。

何回も何回も本当に嫌だなーって思いながら別れを告げます。
その嫌だなーの数だけ、一緒に笑ってくれた人達がいます。
嫌だなーの数だけ、人を笑顔にできたんです。
その人の人生の一瞬を、もしかしたらそれ以降の長い一生を良いものにできたんです。

これってすごいことですよ。
そして、これから赴く先でも、僕はそれを繰り返します。

そう考えると、別れも悪くないんだなって思えます。

そう自分に説明しています。

本当に、お久しぶりになってしまって申し訳ありません。
また、少しずつ書いていけたらと思います。

では。
悩んでばかりの人生だなと思います。

「自分では解決できないことで悩まない人が優秀」とどこかで聞きましたが
そんな言葉を知っていても、悩んでしまうのが人の性です。

自分の選択で悩んでばかりです。
この選択で本当に正しいのかと。
もっといい選択ができたのではないかと。

それこそ、答えのない問ですが。



今までもいろいろなことを経験してきました。
どうなってしまうんだろうという事もありました。

でも、なんとかなってきましたし、なんとかなったから
いま、こうしていられるわけです。


僕が思うに、過去におけるいい選択というのは
現在が充実しているかどうかにかかっていると思います。

現在の生活が充実しているのなら
過去にあったどんな困難も幸せな今のための必要な道のりだったと思うことができます。

逆に現在の生活が辛いものであったなら
過去にあったどんな幸せも偽りのものだったように思えるかもしれません。

疲れてる時はね。
昔はよかったなんて思うかもしれません。

本当に昔がよかったのかなんてわからない。
自分が幸せだったと思う昔にだって、辛いことはたくさんあったはずなんです。
だけど、いまにつながる物語を描くために、昔が良かったことにしなくちゃならない。


以上のような意味では
過去だって変えられます。
もっと言えば、未来にとっての過去である現在だって変えることができます。

ここまで考えてしまえば、いい選択なんてないのかもしれませんね。

あるのはただ選択だけで、
それをいいものにするのかどうかは、未来の自分次第ということになります。


悔いのないよう、いい選択を「してきた」人生をおくりたいなーと思います。

では!

お久しぶりです。

ログインパズワードを忘れてしまっていました。


今日は歴史の話をしたいと思います。




歴史ってパンくずみたいやなーって思いました。



ヘンゼルとグレーテルが森の中で迷わないように落としていくあれです。


物語の主人公である二人は自分たちが迷わないように、一つ一つパンくずを落としていく。
彼らは自分たちがどこにいて、どこに向かっているのかわからないまま、クネクネと迷いながら、進んでいき、お菓子の家を発見します。

僕たち読者はその話のあらすじを知っているから、「森の中を歩いているうちに、お菓子の家についた」ということを当たり前のように考えます。



でも、彼らが迷った結果、森から出られない可能性だってあるし、違う場所につく可能性だってあるわけです。


「なぜ、二人はお菓子の家についたのか」



こんなことを考えるのが歴史学です。


どうやって、それを考えるのか。



ここでパンくずの登場です。

「森の中を歩いているうちに、お菓子の家についた」
という説明は二つのパンくずからなされます。
すなわち、森の入口にあるひとつのパンくずと森をでて、お菓子の家の前にあるパンくずです。
この二点を直線的につなげることで、先ほどの論は主張されます。


では、三つのパンくずをもとに考えてみたらどうなるのでしょう。
二つは先程と同様です。新しいひとつは森の中の二人が選ばなかった、別れ道にあったとしたらどうでしょうか。


その場合こう考えることができます。
「二人は違う道を通って、お菓子の家に行かない可能性もあった」と


ならば、なぜ二人はお菓子の家へ向かわない道を行かなかったのでしょうか。
いくつか理由が考えられますが、ひとつ例として狼が出たからというのはどうでしょう。
「二人は一度は違う道へと進んだが、狼がその先に見えたため道を引き返して、お菓子の家についた」
今度の場合はこう考えることができます。



歴史の場面を見ているとこのような場面によく出くわします。

「ヒトラーはナチスに入党し、扇動家として頭角をあらわし党首に、その後国民の絶大な支持をうけて首相になり、全権委任法をへて、独裁者に云々」


確かにこれは正しい説明ですが、ヒトラーが首相になれない可能性はありましたし、実際、ヒトラーはナチスが第一党を取った直後の選挙で大統領に首相任命を拒否されています。ヒトラーが首相にならない分岐点はいくつもありました。


二つのパンくずでは見えなかったものが、三つでは見えてくる。


三つのパンくずでは見えなかったものが、四つでは見えてくる。


こうしていくつものパンくずを追っかけて、彼らがたどったあしあとを探るのが歴史なのではないかと思います。



残念ながら、パンくずがなくなってしまっていることがあります。
それはときの経過だったり、動物に食べられたり、色々な理由があるのですが、とにかくそういうことがあります。


そのあいだを埋めようとすることも歴史の役目です。
そのために経済であったり、政治であったり、様々な枠組みを使って、そこに補助線をひいてやります。


「歴史に学ぶ」という言葉があります。



この言葉の意味は、
「始まり終わりを知って、めでたしめでたしということ」ではなく
「物語の登場人物と一緒に歩いて、彼らがしたことを自分の経験とすること」なのではないでしょうか。



たとえば、ナチスの全体主義を研究したハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の中で、「全体主義の起源は、機能不全に陥った議会への不満から、権威主義的な体制を望むことにある」と述べています。

これは平たく言えば、「決められない政治に嫌気がさしたから、とりあえず決めてくれる強引なひとに引っ張ってほしい」ということになります。


日本の現状になんか似てるなーと思いませんか。


少し調べてみると、パンくずはいくつも見つかります。
そうするだけで、いままで自分が考えていたのとは違う物語が見えてきます。
そしてその物語こそよりリアリティのある物語なのです。


こんなことを考えていました。


ご意見・ご感想など気軽にお聞かせください。

ずっと考えていることがあって
その勉強を始めようかなと思います。

「物語論」って勝手によんでるんですけど
「出来事論」のほうが正しいかもしれません。

「一回性を帯びる時間の中で様々な可能性の中から一つを選び出すこと」
を物語の構造だと考えています。
だから例えば音楽も文学も絵画も「物語」です。

音楽をするときのワクワク感であったり、本を読んでいてふと気付いた時の埋没感。
「今どこにいたんだろう」感ってありませんか?
あの正体は何だろうというのがそもそもの動機です。
それへの回答のひとつが「物語」だと考えています。

僕たちはいつも選択をしながら生活しています。
今日は何食べよう。洗濯物はあとで取り込もう。課題は明日しよう。

全部「多くあった選択肢の中から一つのものを選び出すこと」
すなわち物語です。
つまり、僕たちの人生そのものが「物語」と言えるのではないかと、僕は考えました。

整理しますと「多くのものから一つを選び出すことを時間の経過とともに積み重ねていく過程」を物語と呼ぶのなら、音楽や文学も人生も物語といえる。
ということです。


もうすこしいうと物語の構造って、ひとつを選び出す構造であって、同時に「それ以外ではなくさせる」構造なんです。

「りんご」






っていった瞬間。おそらくりんごを強く意識したと思います。
逆にいえば、りんごしか意識しなかったはずです。

「それ以外ではなくさせる」とはそういう意味です。

すなわち物語とは追体験の構造でもあります。

ちょっと何言ってるかわかんなくなってきました。


もう一回まとめると
・人生も音楽も文学も物語という構造をもつ
・物語の構造とは「多くから一つを選び出すこと」=「それ以外でなくさせること」
・また、追体験の構造

以上をまとまるとですね。

音楽や読書の瞬間の埋没感とは、物語の構造の特質である「それ以外でなくさせる」ことが原因であって、わくわく感とは追体験の構造「人生を生きさせられる」ことが原因ではないかと考えたわけです。

もっといえば、種々の芸術はすべて物語の構造をもっていて
それらの芸術をとおして、人生というものはより豊かなものになっていくのではないでしょうか。




ここまで読んで下さった方がいたらありがとうございました。


ご意見ご感想なりありましたら、お気軽にどうぞ!

では!

ずいぶんと長い間更新が滞っていました。すみません。

就職活動、ゼミでの発表等で少し、考えることがあったので

ブログからは離れていました。


最近は組織の形について考えているんですが、それはまた別の機会に譲ります。



誰にとっての人生なのかというのはとても難しい問題だなーと最近考えています。

もちろん、僕の人生は僕のものなのですが、自分勝手にばかり生きるのも物足りなく感じる気がします。

誰かが喜んでいる姿を見たり、誰かが笑っている姿を見ているときにも大きな満足感が得られます。


自分の人生を社会に貢献する形で自分勝手に生きる


これが理想です。



「理想」です 笑


とにかくまた明日からがんばります!


では!