お久しぶりです。
ログインパズワードを忘れてしまっていました。
今日は歴史の話をしたいと思います。
歴史ってパンくずみたいやなーって思いました。
ヘンゼルとグレーテルが森の中で迷わないように落としていくあれです。
物語の主人公である二人は自分たちが迷わないように、一つ一つパンくずを落としていく。
彼らは自分たちがどこにいて、どこに向かっているのかわからないまま、クネクネと迷いながら、進んでいき、お菓子の家を発見します。
僕たち読者はその話のあらすじを知っているから、「森の中を歩いているうちに、お菓子の家についた」ということを当たり前のように考えます。
でも、彼らが迷った結果、森から出られない可能性だってあるし、違う場所につく可能性だってあるわけです。
「なぜ、二人はお菓子の家についたのか」
こんなことを考えるのが歴史学です。
どうやって、それを考えるのか。
ここでパンくずの登場です。
「森の中を歩いているうちに、お菓子の家についた」
という説明は二つのパンくずからなされます。
すなわち、森の入口にあるひとつのパンくずと森をでて、お菓子の家の前にあるパンくずです。
この二点を直線的につなげることで、先ほどの論は主張されます。
では、三つのパンくずをもとに考えてみたらどうなるのでしょう。
二つは先程と同様です。新しいひとつは森の中の二人が選ばなかった、別れ道にあったとしたらどうでしょうか。
その場合こう考えることができます。
「二人は違う道を通って、お菓子の家に行かない可能性もあった」と
ならば、なぜ二人はお菓子の家へ向かわない道を行かなかったのでしょうか。
いくつか理由が考えられますが、ひとつ例として狼が出たからというのはどうでしょう。
「二人は一度は違う道へと進んだが、狼がその先に見えたため道を引き返して、お菓子の家についた」
今度の場合はこう考えることができます。
歴史の場面を見ているとこのような場面によく出くわします。
「ヒトラーはナチスに入党し、扇動家として頭角をあらわし党首に、その後国民の絶大な支持をうけて首相になり、全権委任法をへて、独裁者に云々」
確かにこれは正しい説明ですが、ヒトラーが首相になれない可能性はありましたし、実際、ヒトラーはナチスが第一党を取った直後の選挙で大統領に首相任命を拒否されています。ヒトラーが首相にならない分岐点はいくつもありました。
二つのパンくずでは見えなかったものが、三つでは見えてくる。
三つのパンくずでは見えなかったものが、四つでは見えてくる。
こうしていくつものパンくずを追っかけて、彼らがたどったあしあとを探るのが歴史なのではないかと思います。
残念ながら、パンくずがなくなってしまっていることがあります。
それはときの経過だったり、動物に食べられたり、色々な理由があるのですが、とにかくそういうことがあります。
そのあいだを埋めようとすることも歴史の役目です。
そのために経済であったり、政治であったり、様々な枠組みを使って、そこに補助線をひいてやります。
「歴史に学ぶ」という言葉があります。
この言葉の意味は、
「始まり終わりを知って、めでたしめでたしということ」ではなく
「物語の登場人物と一緒に歩いて、彼らがしたことを自分の経験とすること」なのではないでしょうか。
たとえば、ナチスの全体主義を研究したハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の中で、「全体主義の起源は、機能不全に陥った議会への不満から、権威主義的な体制を望むことにある」と述べています。
これは平たく言えば、「決められない政治に嫌気がさしたから、とりあえず決めてくれる強引なひとに引っ張ってほしい」ということになります。
日本の現状になんか似てるなーと思いませんか。
少し調べてみると、パンくずはいくつも見つかります。
そうするだけで、いままで自分が考えていたのとは違う物語が見えてきます。
そしてその物語こそよりリアリティのある物語なのです。
こんなことを考えていました。
ご意見・ご感想など気軽にお聞かせください。