何故自分がまっすぐに成長できず、歪んだまま大人になってしまったのか。

その根本的な原因を最近やっと解明することができるようになってきた気がする。
 

その根本的な原因とは、生まれ育った家庭が安全・安心できる場所ではなかったからということだ。
 

機能不全家庭。

家庭環境が原因であり、家は何故か落ち着かない、ざわざわ、もやもやする、自分の存在価値を認めてもらわないといけない。

家庭は安全基地というけれど、どういう状態を安全基地というのか。

何をもって安全基地というのか、本当の意味が理解できていなかった。
 

衣食住足りているのであれば十分ではないかと言う意見もある。
確かにそうだ。「衣食住足りて礼節を知る」という諺もあるくらいである。
 

でもこの諺はなにか思慮が浅い、欠けているものがあるのではないか。


衣食住は物質的なもの、目に見えてわかるもの。
衣食住の上に礼節という精神的なものが乗っかっている構造になっている。
だけど本当にそうなのだろうか?

衣食住足りているけど、礼節を知らない人も多いのではないだろうか?
 

もっと根本的なもの。
目に見えない精神的なもの。
元々それが備わっていないと、衣食住足りたところで礼節に発展できないのではないだろうか。
 

私の生まれ育った家は、衣食住が足りていた。
だけど私にとっては礼節を知れる場所ではなかった。

雨風をしのげて、空腹を紛らわすことはできたので、物理的な面では安全ではあったのかもしれない。

 

いや、ちょっと待てよ、兄弟で食事の内容に差をつけられていたなぁ。

この場合どうなるんだろう!?

 

跡取りである男の子には高級な肉を、家を継がない女の私には安売りされていた魚を。

高級な肉は跡取りのために買ってきたものだから、私は食べてはいけない。


そして常に自分の居場所が無い、自分はこの家に属していない、常に落ち着かない、そういう不安を常に抱えたまま生活をしていた。
家族にとって、自分は常に厄介者のように扱われていた。
その反面私という存在がいることにより、自らがその厄介者のポジションに行かなくても良いという安心材料にもなっていたのではないかとも思う。
弱いものが更に弱いものを蔑み虐めるように。
嫌悪感を与えると同時に、優越感を与える存在であったのだと思う。
そんな不安と恐怖を抱えたまま、成長してきてしまった。

 

安心と安全を得られないまま。

精神面での安心と安全を与えられないまま、育めないままに。
 

そんな環境では、自分の能力を開花させることはできなかった。

自分の人生に集中することができなかった。
常に他人の評価を気にして、物事に集中できなかった。

家庭が安全基地ではなかったのだ。

 

常に緊張して、常に戦場にいる、過緊張が常態化していた。

そんな環境で歪んだまま成長してしまったのだ。

 

家庭が安全・安心とはどういう意味なのか?
最近やっと理解できるようになってきたのだ。