【】はDr Peter Masters版注釈より翻訳、第二ロンドン信仰告白訳の本文は東京聖書教会、第二ロンドン信仰告白より。

 

第十八章 恩恵と救いの確信について

 

1.たとえ一時的な信者や他の再生しない人々が、神の愛顧と救いの状態にあるという偽りの希望や、肉的傲慢【霊的でない方法で、彼らがそれを当然だと思っていること】をもって自分を空しく欺いたとしても(ヨブ8:13,14;マタイ7:22,23)、彼らのこの希望は消失してしまう。しかし主イエスを真実に信じ、誠実に愛し、御前に全く善い良心をもって歩こうと努める人々は、確実にこの世にあって自分が恩恵の状態にあることを確信させられ(Ⅰヨハネ 2:14,18,19,21,24; 5:3)、神の栄光の希望を喜び、この希望は決して彼らを失望に終わらせない【この希望は決して彼らを裏切ったり失望させたりすることはない。神は彼らを祝福し、祈りを聞き入れ、最後には栄光へと導いてくださるからである】(ローマ5:2,5)。

 

2.この確実性は、誤りやすい希望に基づいた単なる推量【根拠に乏しいが真実としてしまっていること】や、憶測による信念ではなく(ヘブル 6:11,19)、福音に啓示された【世の救い主の歴史的事実に基づく】キリストの血と義とに基づく誤りのない信仰の確信である(ヘブル6:17,18)。それはまた、この約束がなされた御霊の恩恵の内的証拠【恵みのしるしや証拠】(Ⅱペテロ1:4,5,10,11)や、我々が神の子であることを我々の霊【感覚、霊的な確信】と共に証言する子たる身分を授けられた御霊の証明(ローマ 8:15,16)に基づき、御霊の果として、心が謙遜に、かつ潔く保たれる(Ⅰヨハネ3:1-3)。

 

3.この誤りない確信は、信仰の本質に属していないので、真の信者でもそれを得るまでには長く待つとか、多くの困難と戦うかもしれないが(イザヤ 1:10;詩 88;77:1-12)、神から自分に自由に与えられている事柄を、御霊によって知るようにされているので、特殊な啓示なしに通常の手段の正しい使用によって、これに到達できる(Ⅰヨハネ4:13; ヘブル6:11,12)。従って、自分の召命と選びを確かにするよう勤勉をつくすことは、すべての者の義務であり、それによって彼の心は、聖霊にある平和と喜び、神への愛と感謝、服従の義務を果す力と喜びという、この確信にふさわしい結実に富むようになり(ローマ5:1,2,5;14:17 詩119:32)、人を放縦に傾かせるようなことはない。

 

4.真の信者も、この確信を堅持することの怠慢(雅歌 5:2,3,6)、良心を傷つけ御霊を憂えさせる特殊な罪に陥ること(詩51:8,12,14)、突然の、あるいは激しい誘惑(詩116:11;77:7,8; 31:22)、神がみ顔の光を隠されたり、暗黒の中を神を恐れる者が光なしに歩くような苦難(詩30:7)などのさまざまの方法によって、救いの確信が動揺、弱め、中断【一時的な中断】させられることがある。しかし【確信の喪失の原因や期間が何であれ】彼らは決して神の種【本質的な霊的アイデンティティ】や(Ⅰヨハネ3:9)、信仰の生命【永遠の価値を持つ】(ルカ22:32)、キリストと兄弟たちへの愛、誠実な心、義務への良心を失うことはない。これらから御霊の働きによってこの確信は、適切な時に回復され(詩 42:5,11)、またこれらによって、その間も全くの絶望に陥らないように支えられる(哀歌3:26-31)。

 

 

第十九章 神の律法について

 

1.神はアダムに、その心に記した普遍的な服従の律法を与えられ(創世 1:27; 伝道 7:29)、また善悪を知る木の実を食すなとの特別な命令を与えられた。これによって彼とそのすべての子孫に人格的な、全き、厳密な、永続的な服従の義務を負わせ(ローマ10:5)、それを守ることで生命を約束し、破ることで死の威嚇をし(ガラテヤ3:10,12)、それを守る力と能力を彼に授けられた。

 

2.人の心に最初に記されたこの律法は、堕落後も義の完全な基準として継続し(ローマ 2:14,15)、神によってシナイ山で十戒として申し渡され(申命記10:4)二枚の石板に書かれた。最初の四つの戒めは、神に対する我々の義務を、他の六つの戒めは、人間に対する我々の義務を含んでいる。

 

3.通常、道徳律法と呼ばれているこの律法のほかに、神はイスラエル民族に対して儀式律法【象徴的な意味を持つ儀式で、他の何かを象徴している】を与えることをよしとされた。これは、一部はキリストとその恩恵、行為、苦難、祝福を予表する【または代表される】礼拝に関するもの(ヘブル10:1; コロサイ2:17)、一部は道徳的義務の種々な教訓を提示する予表的規定を含んでいる(Ⅰコリント5:7)。この儀式律法はみな改革の時まで定められたものであり、真のメシヤであり、唯一の立法者であり、御父からそのために権能を受けたイエス・キリストにより廃棄され、取り除かれた(コロサイ2:14,16,17; エペソ2:14,16)。

 

4.神はまた彼らにさまざまの司法的律法を与えられた。これはその民の国家とともに終わり、その規定のゆえに今は義務づけられておらず、その一般的公正さ【その根底にある正義と公正の原則】だけが道徳的な有用性をもっている(Ⅰコリント9:8-10)。

 

5.道徳律法は、義と認められた者にも他の者にもすべてに永久に服従を義務づける(ローマ13:8-10; ヤコブ2:8; 10-12)。その内に含まれている事柄のゆえだけでなく、それを与えられた創造者である神の権威のゆえにもよる(ヤコブ2:10,11)。キリストも福音においてこの義務を解消することなく、かえって【それとは反対に】大いにそれを強化されている(マタイ5:17-19; ローマ3:31)。

 

6.真の信者はわざの契約について、律法の下にはいないので、これによって義と認められたり罪に定められたりしないとはいえ(ローマ 6:14;ガラテヤ 2:16;ローマ8:1;10:4)、この律法は彼らにも他の者にもきわめて有用である。それは生活の基準として彼らに神の御旨と彼らの義務を知らせ、これに従って歩むように導き、拘束し(ローマ 3:20; 7:7など)、彼らの性質、心、生活の罪深い汚れをあらわし、それによって彼ら自身を探り、一層進んだ罪の確認と謙遜と罪への憎しみに至るようになり、それと共にキリストとその【彼らに変わって、律法に対しての】従順な完全とを必要としている自分を一層【自問自答しながら】明白に悟るようになる。この律法はまた再生した者に対しては、罪を禁止して彼らの腐敗【罪深い傾向】を制御するのに有用であり、その威嚇は彼らが呪いや仮借のない厳しさから解放されているとしても、彼らの罪が何に相当し、また罪のためにこの世でいかなる苦難を予期するべきかを示すのに役立つ。同様に律法の約束は、彼らの服従に対する神の嘉納と、それを成就するに当って、わざの契約としての律法【それを行うためにはもちろん、すべての部分に常に完璧に従わなければならない】によって当然の報いではなく、いかなる祝福を期待できるかを示す。そこで、律法では善をすすめ、悪を抑制しているという理由で人が善を行ない悪を避けても、それは彼が律法の下にあって恩恵の下にはいないという証拠にはならない(ローマ6:12-14; Ⅰペテロ3:8-13)。

 

7.律法の前述の効用は福音の恩恵【受けるに値しないあわれみとご好意による福音】と矛盾せず(ガラテヤ3:21)、むしろそれと美しく一致しており、キリストの御霊は、律法に啓示された神の御旨が行なうようにと要求していることを、自由にしかも喜んでなすように、人の意志を従わせ、それを得させられる(エゼキエル36:27)。

 

 

第二十章 福音及びその恩恵の範囲について

 

1.わざの契約が罪によって破られ、生命に至るに適さなくなった【いのちを与えるのには役に立たなくなった】ので、神は選ばれた者を召し、彼らの中に信仰と悔い改めを生じさせる手段として、女のすえであるキリストの約束を与えることをよしとされた(創世記3:15)。この【一番最初の】約束において福音の本質【すべての核心と本質的な問題】は啓示され(黙示13:8)、これが罪人の回心と救いに有効【有効かつ効果的な方法】なものとなった。

 

2.キリストと彼による救いのこの約束は、ただ神の言葉によって啓示されている(ローマ1:17)。自然の光【など】による限りでは、神の創造の御業も、摂理も、一般的または漠然的にもせよ、キリストと彼による恩恵を明らかにしない。まして約束すなわち福音によるキリストの啓示なしに、人は救いの信仰または悔い改めに至ることはできない(箴言29:18; イザヤ25:7; 60:2,3)。

 

3.罪人に対する福音の啓示は、これを与えられた民族や個人に約束とその中で要求された服従の教えを伴って、いろいろな時に、さまざまな方法でなされたが、全く神の主権的意志と善意から出ている(詩篇147:20; 使徒16:7)。それは、誰もなし得なかった、またなし得られない生れつきの能力の適正な改善に基づくいかなる約束によっても、福音の啓示をもたない自然の光によっても、附加されない(ローマ1:18以下)。それゆえ、福音の宣教はあらゆる時代において、神の意志のご計画に従って、各個人各民族に対し、その広がりや狭さは多様に、与えられた。

 

言い換え

3. 罪人に対する福音の啓示は、さまざまな時期に、さまざまな部分に分けて与えられ、約束と必要な応答についてのご命令によって完成され、そして神の主権的意志と善意によってのみ、国家や個人に与えられてきた。それは決して、彼らが正しいことのために捧げたり、常識的にのみ導かれて自分のやり方を変えると約束した(あるいは善意を示した)ことによって与えられたものではない。それゆえ、あらゆる時代において、福音の宣教は、神のご意志のご計画に従って、個人にも国にも、その範囲が広いか限られているかにかかわらず(かなりのばらつきがあるが)与えられてきた

 

4.福音はキリストと救いの恩恵を啓示する唯一の外的手段であり、そのために全く十分であるにもかかわらず、咎のうちに死んだ人間が新しく生れ、生かされ、再生されるには、かれらのうちに新しい霊的生命を作り出すために、霊魂全体【すべての部分】への有効で不可抗的な聖霊の働きが必要である(詩篇 110:3;Ⅰコリント 2:14; エペソ 1:19,20)。これなしには他のいかなる手段も神に至る回心に有効ではない(ヨハネ6:44; Ⅱコリント4:4,6)。

 

 

第二十一章 キリスト者の自由と良心の自由について

 

1.キリストが福音のもとにある信者のために買い取られた自由は、罪責、神の断罪の怒り、律法の責苦や呪いからの自由(ガラテヤ3:13)と、今の悪の世(ガラテヤ 1:4)、サタンへの隷属(使徒 26:18)、罪の支配(ローマ 8:3)、患難という災い(ローマ8:28)、死の恐れととげ(Ⅰコリント 15:54-57)、墓の勝利、永遠の刑罰(Ⅱテサロニケ 1:10)からの解放と、その上に神への自由な接近(ローマ8:15)、奴隷的恐れからでなく子のような愛と自発的意志(ルカ 1:74,75; Ⅰヨハネ4:18)から出た神への服従である。これらは実質的には、律法の下にある信者たちにも共通であったが(ガラテヤ3:9,14)、新約の下にあってキリスト者の自由は、ユダヤ人教会が服していた儀式律法の軛からの自由や、恩恵のみ座への一層大胆な接近、神の自由の御霊とのより充実した交わりにおいて、律法の下にいた信者たちが通常受けていた以上に拡大されている。

 

2.神だけが良心の主であり(ヤコブ4:12; ローマ14:4)、すべての事において神の御言葉に反したり、御言葉に含まれていない人間の教理や戒めより、良心を自由にされた(使徒4:19; 5:29; Ⅰコリント7:23; マタイ15:9)。それゆえ良心を離れてこのような教理を信じ、このような戒めに従うことは、良心の真の自由に背くことになる(コロサイ2:20,22,23)。盲従的信仰や絶対的盲目的な服従を要求することは、良心の自由や理性を破壊することである(Ⅰコリント3:5;Ⅱコリント1:24)。【ここでいう「盲従的信仰」とは、ある種の一般的な信仰のことである。例えば、ある人は特定の教会の教え全体には信仰を持っているかもしれない。しかし、ある特定の教義について自分の考えによる信仰を持ってはいない。つまりその人は教会や制度における信仰の一部として「教理一式」を受け入れているだけなのである

 

3.キリスト者の自由を口実にして、罪を犯したり、罪深い欲望を抱く者は、それによって福音の恩恵の主要目的を歪めて自分自身の滅亡を招き(ローマ 6:1,2)、キリスト者の自由の目的すなわち、すべての我らの【霊的な】敵の手より救い出された我々が、生きている限り主の前に聖と義をもって恐れなく主に仕えることを全く破壊する(ガラテヤ5:13;Ⅱペテロ2:18-21)。【キリスト者の自由の教義を、我々の罪や乱れた行いのことで異議を唱えられることから身を守るためだと主張する者がいる。自由の目的は、我々がより神に仕え従うようにすることであるが、霊的な束縛はともなわない

 

 

第二十二章 宗教的礼拝および安息日について

 

1.自然の光は、神が存在され、万物の上に主権と統治権を持ち、義と善にして、万物に善を行なわれ、それゆえに心をつくし、精神をつくし、力をつくして畏れ、愛し、讃美し、呼ばわり、信頼し仕えられるべき方であることを示している(エレミヤ 10:7;マルコ12:33)。しかし、真の神を礼拝するにふさわしい方法は、神ご自身でこれを定め(申命記 12:32)、御自身が啓示された御心により限定されているので、人間の想像や工夫、または悪魔の示唆に従って、いかなる可視的な表現【偶像、像、絵 etc】や、聖書に規定されていないその他の方法によって礼拝してはならない(出エジプト20:4-6)。

 

2.宗教的礼拝は、父・子・聖霊の神に、ただこの神にのみささげられ(マタイ 4:9,10;ヨハネ5:23; マタイ28:19)、天使や聖徒や他の被造物にささげられてはならない(ローマ1:25; コロサイ2:18; 黙示録19:10)。堕落以来、仲介者なしに(ヨハネ14:6)、キリスト以外の他のいかなる仲介によってもささげられてはならない(Ⅰテモテ2:5)。

 

3.感謝を伴う祈祷は、本来の礼拝の特別な部分であり、神がすべての者に要求しておられる(詩篇95:1-7; 65:2)。しかしそれが受け入れられるためには、御子の名において(ヨハネ14:13-14)、御霊の助けにより(ローマ8:26)、御心に従って(Ⅰヨハネ5:14)、理解、畏敬、謙遜、熱心、信仰、愛、忍耐をもって、また他の人と共に祈る時はよく知られた言葉で祈るべきである【この点において、バプテスト信仰告白はラテン語の礼典を念頭に置いているが、この原則は、カリスマ派的な集会での祈りにおける異言の使用にも同じく適用される】(Ⅰコリント14:16-17)。

 

4.祈祷は合法的な事柄のため、あらゆる種類の生きている人や、今後生まれてくる人のために、ささげるべきである(Ⅰテモテ2:1,2; Ⅱサムエル7:29)。しかし死人(Ⅱサムエル12:21-23)や、死に至る罪を犯したと知られている人々のためにするべきでない(Ⅰヨハネ5:16)。

 

5.聖書を読み(Ⅰテモテ 4:13)、説教し神のみ言葉を聞き(Ⅱテモテ 4:2; ルカ 8:18)恵みに感じて主に向かって詩と讃美と霊の歌を歌い、互いに教えまた勧めることは(コロサイ 3:16; エペソ 5:19)、バプテスマや(マタイ 28:19,20)主の晩餐の執行(Ⅰコリント11:26)とともに、みな宗教的神礼拝の要素である。それらは、神に対する従順のうちに理解と信仰と敬虔と畏れをもってなされるべきであり、さらに特別な機会には断食を伴う厳粛な謙遜(エステル4:16; ヨエル2:12)、また感謝(出エジプト 15:1以下; 詩篇107篇)が聖い宗教的態度で用いられるべきである。

 

6.祈祷も他の宗教的礼拝のどのような要素も、今や福音の下【新約聖書の秩序】では、それが行われる場所やそれが向けられている所と結びつけられたり、一層よく受入れられたりすることはない(ヨハネ4:21; マラキ1:11; Ⅰテモテ2:8)。むしろ神は霊と真をもってあらゆる場所で礼拝されるべきであり、日ごとに家庭で(使徒10:2マタイ6:11; 詩篇55:17)、個人が隠れた所で(マタイ6:6)、公同の集会では一層厳粛に礼拝されるべきである。神が御言葉や摂理によってそこに招かれる時に、不注意やまたは故意に公同の礼拝を無視したり、放棄したりしてはならない(ヘブル10:25; 使徒2:42)。


7.神の定めに従い、一般に適正な割合の時間を神礼拝にあてるのが自然の法則であるように、神は御言葉によって、すべての時代のあらゆる人に義務を負わせる積極的、道徳的、恒久的な命令で、七日のうちの一日を特に安息日と定めて、神に対して聖く守るようにされた(出エジプト20:8)。それは世の初めからキリストの復活までは一週の終りの日であったが、キリストの復活以後は一週の初めの日に変えられ、主日と呼ばれている(Ⅰコリント16:1,2; 使徒20:7黙示録1:10)。これは世の終りまでキリスト教安息日として継続されるべきであり、週の終りの日を守ることは廃された。

 

8.それで安息日は、人が自分の心の適正な準備をし、日常の用務【一般的なこと、または家庭内のこと】を前もって整えた後、この世の職業、娯楽についての自分の行ない、言葉、思いから離れて、その日一日きよい休息を守るだけでなく(イザヤ58:13;ネヘミヤ13:15-23)、すべての時間を公的また私的に神を礼拝し、必要な義務と憐れみの業を行なうために用いるべきである(マタイ12:1-13)。

 

 

第二十三章 合法的宣誓と誓約について

注:宣誓とは、神が証人として呼び出される中で、人々に対して(あるいは人々の間で)行われる、何かを誓う、あるいは実行するという厳粛な約束のことである。誓約とは、神に対して行う厳粛で拘束力のある約束のことである

 

1.合法的宣誓は、宗教礼拝の一部であり(出エジプト20:7;申命記10:20;エレミヤ4:2)、人が真実と正義と公正をもって宣誓するに際し、神が自分の宣誓の証人となり、宣誓の真偽に従って裁いてくださるように厳粛に神を呼び求める(Ⅱ歴代6:22,23)。

 

2.神の御名だけが人が宣誓するに依るべきものであり、御名は全く聖い畏れと尊敬をもって用いられなければならない。それゆえ、この栄光ある恐るべき御名によって、空しく軽はずみに宣誓したり、または他の何かによって宣誓することは罪深く嫌悪すべきである(マタイ5:34,37;ヤコブ5:12)。とはいえ、真実の確証のための重要かつ緊急の事柄とか争いを止めさせる事柄においては(ヘブル6:16; Ⅱコリント1:23)、神の御言葉によって宣誓は保証されているので、合法的権威によって課せられるそのような事柄についての合法的宣誓はなされるべきである。(ネヘミヤ13:25)。【教会で争いが起こった場合、当事者は長老たちから、将来正しい道を歩むことを神の前で厳粛に誓うよう求められる場合がある。また、重大な状況においては、証言者が神の前で自分の証言が真実であることを確認するよう求められることもある。宣誓とは、さらに次のように定義されている。- 神に、私たちが真実であると断言することの真偽を証言してもらうこと、あるいは、将来何かを行う義務を自発的に負うこと- もし私たちが嘘をついたり、約束に背いたりした場合には、神の不興を買うという含みがある

 

3.神の御言葉の保証によって宣誓する者は誰でも、このように厳粛な行為の重大性を正 しく考慮すべきであり、真実であると知っている事の外は何事も公言してはならない。主は軽率な偽った空しい宣誓を憤られ、それによって国(民)は憂える【君主やいわゆる宗教指導者、聖職者による中身のない不誠実な誓いや誓約は、我々の国の霊的妥協、背教、衰退の道を切り開いている】(レビ19:12;エレミヤ23:10)。

 

4.宣誓は平易で普通の意味の言葉で、あいまいな言葉【曖昧さあるいは二重の意味があること】や心の中の留保なしになされるべきである(詩篇24:4)。

 

5.誓約はいかなる被造物ににむかってもなしてはならず、ただ神にのみなすべきである(詩篇76:11;創世記28:20-22)。それは十分な宗教的注意と忠実さをもってなされ果されなければならない。終生の独身(Ⅰコリント 7:2,9)、清貧の誓約(エペソ4:28)、修道規則の遵守などの教皇制度の誓約は、より高い完全への段階でないばかりか、むしろ迷信的で罪のわなであるから(マタイ 19:11)キリスト者は誰もこれに係わり合ってはならない。

 

 

第二十四章 国の為政者について

 

1.全世界の最高の主であり王である神は、御自身の栄光と公共の福祉のために、為政者を神の下、民の上にあるようにと制定された(ローマ13:1-4)。そしてこの目的に沿って善を行なう者を守り励まし【法を遵守する市民の安全のため、またその奨励のため】、悪を行なう者を罰するために彼らに剣の権能【武力行使の権限】を備えられた。

 

2.キリスト者が為政者の職務【公職全般を指す】に召された時、それを受けて執行することは合法的である。その職務の執行に際して、それぞれの国の健全な法律に従って、特に公正と平和を維持すべきであり(Ⅱサムエル23:3; 詩篇82:3,4)、その目的のため、新約のもとにある今でも、正当でまたやむを得ない場合には合法的に戦争をすることがある(ルカ3:14; ローマ13:4)。

 

3.為政者【政府機関】は前述の目的のために神に立てられた者であるから、彼らが命じるすべての合法的なこと【法律】に、怒りを避けるためだけでなく良心のために従うのは、主にある我等のなすべきことである(ローマ13:5ー7; Ⅰペテロ2:17)。また王たちや権威をもつ者たちのために祈りやとりなしをすべきであり(Ⅰテモテ2:1ー2)、これは彼らのもとで我等が敬虔と謹厳をつくして安らかで静かな生涯を過すためである。

 

 

第二十五章 結婚について

 

1.結婚は一人の男と一人の女の間に行なわれるべきものであり(創世記 2:24;マラキ2:15; マタイ 19:5ー6)、どのような男でも複数の妻を、どのような女でも複数の夫を同時にもつことは合法的でない。

 

2.結婚は、夫婦の相互の助け合いのため(創世記2:18)、正当な出産による人の増加のため【子どもが、神の計画によって定められた家族のもとに生まれること】(創世記1:28)、汚れ【不品行】の防止のため(Ⅰコリント7:2、9)に制定された。

 

3.自分の判断【それが合理的である場合】において承諾を与えることができるあらゆる人が結婚するのは、合法的である(ヘブル13:4;Ⅰテモテ4:3)。しかし、主にあっての結婚だけがキリスト者の義務である(Ⅰコリント7:39)。それゆえ真の信仰を告白する者は、不信仰者や偶像礼拝者と結婚してはならない(ネヘミヤ13:25ー27)。また敬虔な人は、生活において邪悪な者や、【みことばに照らし合わせて】呪われるべき異端を支持する者と結婚して釣り合わないくびきをつけてはならない。

 

4.結婚はみ言葉で禁じられている血族や姻族の親等内【血縁関係や近親者】でなされてはならない(レビ18章)。またこのような近親結婚は、人間のどんな法律とか当事者の同意によっても、彼らが夫婦として共に住むように合法化することはできない(マタイ6:18;Ⅰコリント5:1)。

 

 

第二十六章 教会について

 

1.公同、または普遍の教会は、(聖霊の内的働きや恩恵の真理に関連して)見えない教会と呼ばれ、そのかしらであるキリストのもとに過去、現在、未来を通じて一つに集められる選ばれた者の全員から成る(ヘブル 12:23; コロサイ 1:18; エペソ1:10,22,23; 5:23,27,32)。それは、すべてのものをもってすべてのものによって満たされる方が満ちておられるところであり、この方の花嫁、またからだである。【すなわち、普遍の教会とは選びの民のための真の教会であり、見えないものと見なされなければならない。なぜなら、たとえ最も純粋な福音教会であっても、その会員には、自分の霊的地位に関して偽善的であったり、勘違いしていたり、欺かれていたりするクリスチャンがいる可能性があるからである。同様に、主は真のキリスト者を、ありそうもない環境に隔離しておられる。「恩恵の真理」とは、回心の現実を指す

 

2.福音の信仰を告白し、それに従ってキリストにより神に服従し、その基礎を覆すような過誤や不潔な生活によって自らの告白を無にしない全世界のすべての者は(Ⅰコリ 1:2; 使徒 11:26)、見える聖徒であり、またそう呼ばれ(ローマ 1:7; エペソ1:20-22)、すべての各個教会は【我々が保証できる限りにおいて】これらの者たちによって成立されるべきである。

 

3.地上の最も純粋な教会といえども混入物と過誤を受けやすく【影響を受けやすく】(Ⅰコリ15章; 黙示録2,3章)、ある教会はもはやキリストの教会ではなくサタンの会堂となるほどに堕落した(黙示録18:2;Ⅱテサロニケ2:11,12)。それにもかかわらずキリストは常に、彼を信じその御名を告白する人々【神の証人】の王国をこの世に存在させておられ、世の終わりに至るまで存在させられる(マタイ 16:18; 詩篇72:17; 102:28; 黙示録12:17)。

 

4.主イエス・キリストは、教会のかしらであり、父の定めによって、教会を召し【形成し】、起こし、秩序をたて、教会を統治する権能を最高かつ主権的方法で受けられた(コロサイ1:18; マタイ28:18-20; エペソ4:11,12)。ローマ教皇はどのような意味でもそのかしらでなく、むしろ反キリスト、罪の人、滅びの子であり、教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに逆らって自分を高くする者であり、主は降臨の輝きをもってこれを滅ぼされる(Ⅱテサロニケ2:3-9)。【この部分は、バプテスト信仰告白を支持する多くの人々にとって、唯一議論の余地のある記述とみなされている。ローマ教会という組織の異端さと暗黒さ、そして時代を超えてサタンの道具であることについては、バプテスト信仰告白を信じる人々の間に異論はない。ローマ法王庁の仕組みは、霊的にも、組織的にも、影響的にも、完全に反キリスト教的であるのははずだと思う。問題は、時の最後の教皇が、来るべき反キリストのしもべとなるのか、それとも反キリストそのものとなるのか、ということだ。それとも、ローマ教会が反キリストであることを証明するのだろうか?「罪の人」は、人であるかもしれないし、無神論的な思想のことであるかもしれない。しかし、少なくとも、ローマ教皇の地位は反キリストの権力下にあり、ローマ教皇に仕える者は罪の人であり、真の御言葉と恵みのメッセージに逆らって自らを高揚させる滅びの子であると言わなければならない

 

5.主イエスは託されたこの権能の遂行にあたって、御霊により、御言葉の宣教を通して父が彼に与えられた者たちをこの世から御自身へと召される(ヨハネ10:16;12:32)。これは彼らがその御前で御言葉に定められたあらゆる服従の道に歩むためである(マタイ 28:20)。このように召した者たちに、彼はこの世で彼らに要求された相互の建徳【霊的な益】と公の礼拝を正しく行なうため、各個の集会または教会において共に歩むことを命じておられる(マタイ18:15-20)。

 

6.これらの教会の会員は【個人のおよび個人的な】召しによる聖徒であり(ローマ1:9; Ⅰコリント1:2)、(告白と歩みのうちに、またこれらによって)キリストの召しに対する彼らの服従を見えるように【明白に】表わしまた証明する。彼らはキリストの命令に従って共に歩むことに喜んで同意し、福音の定め【命令】に対する服従の告白をもって神の御心により己を捨てて主にささげ、また互いにささげ合うのである(使徒2:41,42; 5:13,14; Ⅱコリント9:13)【真の聖徒は、非活動的であったり、リモートの教会員ではない。主と主の御心が彼らの人生において何よりも最優先され、主と主にある信者に自分自身を捧げるからである】。

 

7.御言葉に宣言された御心に従って、このように集められた教会のそれぞれに対して、神が守るように命じられた礼拝と訓練の秩序を遂行するのに必要なすべての権能と権威を神は与え(マタイ18:17,18; Ⅰコリント5:4,5,13)、この権能を正しく行使するための命令や規定を与えられた。【どのような形であれ、必要とされるすべての権力と権威は地域教会に与えられているので、教団、協議会、年次集会、地域監督、司教、総幹事、あるいは他のいかなる種類の教団にもその機能は残されていないのである。この記事はまた、新約聖書がすべての合法的な活動と主の教会の統治について明確なパターンを提供していることを断言している

 

8.キリストの御心に従って集められ、十分に【適切に】組織された各個の教会【キリストに属する個々の会衆】は役員と会員によって成立する。役員はキリストに任命され、(そのように召され集められた)教会によって選ばれ、聖別される。彼等は監督または長老【同等の役職である】と執事であって、礼典の執行【バプテスマと主の晩餐】と、キリストが委託し、召された権能と義務の遂行【指導者としての働きや 教えや弟子訓練といった特別な務めを果たすこと】に当たり、それは世の終りまで継続されるべきである(使徒20:17,28; ピリピ1:1)。

バプテスト信仰告白は、地域教会における責任を伴うリーダーシップの原則を強く支持している。そのようなリーダーシップは、新約聖書の長老職の記述に示されているように、その働きのために信頼され、従われなければならないが、神の賜物で威張ってはならない。彼らの働きには、交わり全体を教会の働きに献身させるという任務も含まれている。重要な点は、信仰告白が極端な「会衆的」教会観を肯定していないことである。後世のアルミニウス主義者や「ジェネラルバプテスト」が信奉した「会衆的」教会統治観を肯定していない。教会集会と役員法廷の間の聖書的なバランスと「決定」の分配は、このバプテスト信仰告白の時代にはっきりと見られ、実践されていた

 

9.聖霊によって適する者、賜物を与えられた者として教会の監督または長老の召命を受けた人がキリストによって任じられる方法は、教会自体の一般選挙によってその地位に選ばれることである(使徒 14:23)。その人は断食と祈祷によって厳粛に聖別され、すでに任命されている長老がいればその按手を受ける(Ⅰテモテ4:14)。執事も同様に選挙によって選ばれ、祈祷によって聖別され、同様に按手を受ける(使徒6:3,5,6)。

 

10.牧師の働きはその教会において常にキリストへの礼拝を指導し、御言葉と祈祷の奉仕をなし、魂を見守り、キリストに弁明をしなければならない(使徒6:4;ヘブル13:17)。教会は奉仕する牧師に対して適切な尊敬を払うだけでなく(Ⅰテモテ5:17,18; ガラテヤ 6:6,7)、彼らが不足なく支給を受けて【苦難、痛み、困難から免れるように養われ】世俗のことに煩わされないよう(Ⅱテモテ2:4)、また人々を親切にもてなすことができるよう(Ⅰテモテ3:2)、教会の力に応じて、すべての良き物【重要な条項】を分け合う責任がある。これは自然の法則の要求であり、福音を伝える者は福音によって生活すべきものと定めた我等の主イエスの明らかな命令による要求でもある(Ⅰコリント9:6-14)。

 

11.教会の監督または牧師が、職務上常に御言葉の宣教に当たるのは当然であるが、御言葉の宣教の業は彼らに特に限られていない。聖霊によって賜物が与えられ、適任者とされ、教会によって認められ、召された他の人々もこれを行なうことができるし、また行うべきである(使徒 11:19-21;Ⅰペテロ4:10,11)。

 

12.すべての信者は機会が与えられた時と所で個別教会に参加すべき【義務】である。このようにして教会の権利に受け入れられた者はすべてキリストの規範に従って、その教会の訓戒や統治の下におかれる(Ⅰテサロニケ5:14; Ⅱテサロニケ3:6,14,15)。

 

13.教会員は他の教会員が罪を犯した場合、躓きを与えた者に対して要求されている義務を果した後、その者がそのような躓きを与えたという理由で教会の秩序を乱したり、教会の集会に欠席したり、礼典【バプテスマと主の晩餐】の参加を回避【不満を感じて】すべきではなく、むしろ教会のその後の処置【彼らは教会会規を実行するために、キリストが任命された役員に問題を報告しなければならない】を通してキリストを待ち望まなければならない(マタイ18:15-17;エペソ4:2-3)。

 

14.それぞれの教会およびその会員は、【証文を用いて旅する信者のように】あらゆる所にあるすべてのキリストの教会の権利と繁栄のために絶えず祈らなければならない(エペソ 6:18; 詩篇 122:6)。またあらゆる機会に(場所と召し【おそらく、彼らの商売やビジネスを指す】とを同じくする者はその賜物と恩恵【霊性】を用いて)祈りを深め、(神の摂理によって機会と利益と共に受けるように建てられた)諸教会が平和の交わり、愛の増進、相互の建徳を保たなければならない(ローマ 16:1-2;Ⅲヨハネ8-10)。

 

15.教理や教会政治【または教会のやり方】に関して困難や異論が起こった場合、それが諸教会一般に関連するものであれ、またはある一教会の平和、一致、建徳に関してであれ、または教会の会員が真理や秩序に一致しないという非難の処置で悩むのであれ、交わりを共にする多くの教会【同じ教理を分かち合うこと】が使者【代表者】を派遣して考慮し(使徒 15:2,4,6,22,23,25)、忠告を与え、異論のある点については関連諸教会に報告するのはキリストの御心にかなうことである。しかし、これらの使者たちの集まりは、教会や会員を譴責したり、教会や役員にその決定【結論または解決策】を強制したりする教会の権能と本来呼ばれている力や、諸教会に対する支配権を託されてはいない(Ⅱコリント1:24;Ⅰヨハネ4:1)。

 

 

第二十七章 聖徒の交わりについて

聖徒の交わりと分かち合い

 

1.キリストの御霊により、また信仰によって、かしらであるイエス・キリストに結合されているすべての聖徒は、それによってキリストと一人格にされてはいないが、その恩恵、苦難、死、復活、栄光にあずかる【聖徒らはこれらのことすべてから真に永遠の益を受け、それを享受している】(Ⅰヨハネ1:3; ヨハネ 1:16;ピリピ3:10;ローマ6:5,6)。また彼らは愛において互いに結合されて、相互に賜物や恩恵を分け合い(エペソ4:15,16;Ⅰコリ 12:7;3:21-23)、内なる人と外なる人【霊的にも肉体的にも】において相互の益をもたらすように、秩序正しく、公私の義務を果さなければならない【ここで言う「秩序正しく」とは、第一テサ5.14の「怠惰な(KJV;手に負えない)」人々を念頭に置いている。すべてのことは、適切に整えられた交わりの中でなされるべきである】(Ⅰテサロニケ5:11,14; ローマ1:12;Ⅰヨハネ3:17,18; ガラテヤ6:10)。

 

2.【キリストとその御国に属していることを】信仰の告白をした聖徒たちは、神礼拝や、彼ら相互の建徳【霊的な益】に役立つ他の霊的な奉仕を実行し(ヘブル 10:24,25; 3:12,13)、彼らのさまざまな能力と必要に応じて互いに外的な事柄で助け合うこと【痛み、苦痛、不安を和らげること】で(使徒12:29,30)、聖なる交わりや親しみを保たなければならない。このような福音の規範に基づく交わりは、彼らが持っている関係、すなわち家庭(エペソ 6:4)や教会(Ⅰコリント12:14-27)において特に実行されなければならないが、さらに神が機会を与えてくださるままに、これをすべての信仰の家族や、主イエスの御名を呼ぶあらゆる所のすべての人にまで及ぼさなければならない。ただし聖徒としてのこの互いの交わりは、各自が自分の財産や所有に対して持っている権利や所有権を奪ったり、侵害したりするものではない(使徒5:4;エペソ4:28)。

 

 

第二十八章 バプテスマと主の晩餐について

 

1.バプテスマと主の晩餐は、唯一の立法者である主イエスによって明確にまた主権的に制定され、世の終りまで彼の教会において継続されなければならない、礼典である(マタイ 28:19,20;Ⅰコリ 11:26)。【ここでの「明確に」とは、これらの儀式が聖書の中で単に暗示されているのではなく、確実に、明らかに命じられていることを意味する。それらの礼典はキリストによって明確に定められているということである

 

2.これらの聖なる礼典はキリストの任命に従って、そのために召され、適格とされた者によってのみ執行されなければならない(マタイ 28:19;Ⅰコリ 4:1)。

 

 

第二十九章 バプテスマについて

 

1.バプテスマはイエス・キリストによって制定された新約の礼典である。バプテスマは、これを受けた者に対してキリストの死と復活においてキリストと合せられ(ローマ6:3-5;コロサイ2:12;ガラテヤ 3:27)、キリストに接がれ、罪の赦しを受け(マルコ1:4;使徒 26:16)、イエス・キリストによって己を神にささげ(ローマ6:2,4)、新しい生命に生きまた歩むことを表わす、キリストとの交わりのしるしである。

 

2.神に対して悔い改め、主イエスに対して信仰と服従を真実に告白した人だけが、この礼典に適正に【正当に、あるいは正しく】あずかることが出来る(マルコ 16:16; 使徒 8:36,37)。

 

3.この礼典に用いられる外的な要素は水であり(マタイ 28:19,20; 使徒 8:38)、信仰者は父と子と聖霊の御名においてバプテスマを受ける。

 

4.浸礼、すなわち水中に沈めることが、この礼典の正しい【正当な、あるいは十分な】執行のために不可欠である(マタイ 3:16; ヨハネ 3:23)。

 

 

第三十章 主の晩餐について

 

1.主イエスの晩餐は、主が渡される夜、彼によって制定され、彼の教会において世の終りまで守られるべきものである。これは彼の死によるご自身の犠牲を示して、絶えず記念とし(Ⅰコリ11:23-26)、その犠牲によるすべての祝福によって信者の信仰を確立するため、主にある彼らの霊的養育や成長のため、キリストに対して負っているすべての義務への一層の遵守と遂行のため、また彼らのキリストとの交わりや相互の交わりのきずなと保証のためである(Ⅰコリ10:16,17,21)。

 

2.この礼典において、キリストは生きている者や死んだ者の罪の赦しのためにみ父にささげられるのでもなく、またいかなる現実の犠牲がささげられるのでもない。それは十字架の上でキリストが、ご自身でご自身をただ一度だけ、ささげられたことの記念であり(ヘブル9:25,26,28)、このみ業に対して神に献げ得るあらゆる讃美の霊的ささげものである(Ⅰコリ11:24;マタイ26:26,27)。従って教皇主義者【ローマ・カトリック教会】のミサ(と彼らが呼ぶ)犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供えものであるキリストご自身のただひとつの犠牲にとっては最も有害【霊的にも肉体的にも嫌悪感を抱かせるもの】である。

 

3.この礼典において主イエスは教役者に、祈り、パンとぶどう酒を祝福しそれによってこれらの品を普通の用途から聖なる用途へと聖別すること、パンを取って裂き、杯を取って、(彼ら自身もあずかりながら)【同時に】陪餐者にこの二つを与えることを命じられた(Ⅰコリ11:23-26)。

 

4.会衆に杯を与えるのを拒むこと、パンとぶどう酒を礼拝すること、崇拝のためにこれらを高く上げたり、持ち回ったりすること、礼拝まがいの宗教的用途のためにそれらを保存することは、みなこの礼典の性質【または意味】とキリストの制定に反する(マタイ26:26-28;15:9; 出エジプト20:4,5)。

 

5.キリストによって定められた用途にふさわしく聖別されたこの礼典の外的な要素は、十字架につけられたキリストと深い関係を持っているので、しばしば真実に、しかし象徴的にそれらが表わそうとしている名称、すなわちキリストの体と血と呼ばれる(Ⅰコリント 11:27)。しかし、【このような言い方は構成要素として使うのが正しいかもしれないが】その実質と性質は前と同じように真実に、ただパンとぶどう酒のままである(Ⅰコリント11:26; 5:28)。

 

6.パンやぶどう酒の実質が司祭による聖別や他のどのような方法によってでもキリストの体と血の実質に変わると主張する(通常、実体変化説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく(使徒3:21; ルカ24:6; 5:39)、常識や理性にも反し、この礼典の性質をくつがえし(Ⅰコリント11:24,25)、これまでもまた今でも種々の迷信、それどころかひどい偶像礼拝の原因になっている。【露骨に醜悪な偶像礼拝であり、主によって禁止され非難されるべきものである

 

7.この礼典を受けるにふさわしい陪餐者は、外的にはこの礼典の目に見える要素にあずかりながら、内的には信仰により現実にまた実際に、しかも肉的、有形的にでなく【本物の人間の肉を受け取らない】霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死によるすべての祝福を受けて養われる(Ⅰコリント10:16; 11:23-26)。この礼典において、この要素が信者の外的感覚に対して存在するように、キリストの体と血とは有形的【物質的な身体として】、肉的に【肉体として】でなく、霊的に信者の信仰に対して存在する。

 

8.無知で不信仰なすべての人は、キリストとの交わりを楽しむのは不適当であるので(Ⅱコリント 6:14,15)、主の食卓にあずかるにはふさわしくない。従って、彼らがその状態を続けている限り、この聖なる奥義にあずかり、またはあずかることを許されるならば、キリストに対して大罪を犯すことを免れない(Ⅰコリント 11:29; マタイ 7:6)。誰でもふさわしくないままでこの礼典にあずかる者は、主の体と血に対して罪を犯し、その食い飲みは彼ら自身に審きをもたらす。

 

 

第三十一章 人間の死後の状態及び死人の復活について

 

1.人間の肉体は死後、ちりに帰り、朽ち果てる【腐乱する】(創世記3:19; 使徒13:36)。しかし、その霊魂は(死ぬことも眠ることもせずに【無意識になることもなく】)、不死の本質【存在の意味】をもっているので直ちにそれを与えた神に帰る(伝道者12:7)。義人の霊魂はその時に聖さにおいて完全なものとされてパラダイスに受け入れられ、そこでキリストと共におり、自分の体の完全な贖いを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る(ルカ23:43;Ⅱコリント5:1,6,8;ピリピ1:23; ヘブル12:23)。悪人の霊魂は地獄に投げ入れられそこで苦悩と全く暗黒のうちに留められ大いなる日の審判まで閉じこめられる(ユダ 6,7; Ⅰペテロ 3:19; ルカ 16:23,24)。聖書は、肉体を離れた霊魂に対してこの二つの場所【または状態】以外は何も認めていない。

 

2.終りの日に生きている聖徒たちは、眠りにつかずに【死ぬことはなく】変えられる(Ⅰコリント15:51,52;Ⅰテサロニケ4:17)。そしてすべての死人は、異なった性質ではあるが別のものではない同じ体をもってよみがえらせられ(ヨブ19:26,27)、その霊魂に永久に再結合される(Ⅰコリント15:42,43)。

 

3.不義なる者の体はキリストの力によって恥辱へとよみがえらせられ、義人の体はキリストの御霊によって栄誉へとよみがえらせられ、キリストの栄光の体に似るものとされる【変容させ、作り変え、適合させ、似させる】(使徒24:15; ヨヘネ5:28,29; ピリピ3:21)。

 

 

第三十二章 最後の審判について

 

1.神はイエス・キリストにより義をもって世界を審く日を定められた(使徒17:31;ヨハネ5:22、27)。キリストには父よりあらゆる権能とさばき【すべての司法権】が与えられていて、その日には背教のみ使いたちが審かれるだけでなく(Ⅰコリント6:3; ユダ6)、地上に生存していたあらゆる人々も(Ⅱコリント5:10; 伝道12:14; マタイ12:36; ローマ14:10,12;マタイ25:32等)、彼らの思いと言葉と行為の申し開きをして、善悪いずれも彼らが肉体で行ったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷【さばきの座】の前にあらわれる。

 

2.神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて【目に見えるかたちで】その憐れみの栄光を表わし(ローマ 9:22,23)、邪悪で不従順な捨てられた者【認められず、見捨てられた者】への永遠の刑罰においてご自分の正義の栄光を表わすためである。そのため、その時義人は永遠の生命に入り、主の御前において、永遠の報いと共に満ち溢れる喜びと栄光を受けるが(マタイ25:21,34;Ⅱテモテ4:8)、神を知らず、またイエス・キリストの福音に従わなかった悪人は永遠の苦悩に投げ込まれ、主の御前とその権能の栄光から、永遠の破滅をもって罰せられる(マタイ 25:46; マルコ 9:48;Ⅱテサロニケ1:7-10)。

 

3.キリストはすべての人に罪を思いとどまらせるために(Ⅱコリント 5:10,11)、また逆境にある信者の大いなる慰めのために(Ⅱテサロニケ 1:3,6,7)、審判のあることを我々に確実に信じさせようとされるが、それと共に人があらゆる肉的な安心感【自己満足】を払い除けて、常に目を覚ましているようにと、その日を人に知らせない。彼ら【信者】はどのような時に主が来られるかを知らないので(マルコ 13:35-37; ルカ13:35,36)、いつも備えをして「来たりたまえ、主イエスよ。すみやかに来たりたまえ(KJV)」と言うためである。アーメン(黙示録22:20)。