【】はDr Peter Masters版注釈より翻訳、第二ロンドン信仰告白訳の本文は東京聖書教会、第二ロンドン信仰告白より。

 

第六章 人間の堕落、 罪及びその刑罰について

 

1.神は人間を正しく完全に創造し、また守れば生命に至らせ(創世 2:16,17)、破れば死の脅威がある正義の律法を与えられたが、人間はこの栄誉の中に長くは留らなかった(創世3:12; 10:13;Ⅱコリント1:1,3)。サタンは蛇の奸計を用いてエバを唆し、ついで彼女に誘惑されてアダムが、何等の強制によらずに、禁断の木の実を食べることによって、かれらの創造の律法と与えられた命令を故意に破った。このことは神の賢い聖い計画に従って、それを御自身の栄光にする目的で、許容することをよしとされたものである。

 

2.我らの始祖はこの罪によって原初の義と神との交わりより堕落し(ローマ3:23)、我らは彼らのうちにあり【我々は彼らに連なって堕落した】、それゆえすべての者の上に死が来た(ローマ5:12以下)。 すべての者は罪の中に死んだ者、霊魂と肉体のすべての部分と機能において全く汚れたものとなった(テトス1:15; 創世6:5; エレミヤ17:9; ローマ3:10-19)。

 

3.彼らは根源であり(ローマ5:12-19;Ⅰコリント15:21,22,45,49)、また神の定めによって、全人類の代表者の位置に立っていたので、この罪のとがは、通常の出生によって彼らから出るすべての子孫に転嫁され【全ての子孫はこれに帰属し】、腐敗した性質は伝えられ、主イエスが解放しないかぎり(ヘブル 2:14;Ⅰテサロニケ 1:10)、今もなお罪の中にみごもり(詩51:5;ヨブ14:4)、生まれながらに怒りの子(エペソ 2:3)、罪の奴隷、死と他のあらゆる霊的、現世的、永遠的悲惨に服するものである (ローマ 6:20; 5:12)。

 

4.我等をすべての善に対して全くやる気をなくさせ【善に対して不適格となり】、無能にし、反対させ【拮抗・敵対させ】、またあらゆる悪にたいして行なう気を起こさせている(ローマ8:7;コロサイ1:21)、この根源的腐敗によってすべての実際の違反が生じる(ヤコブ 1:14,15; マタイ 15:19)。

 

5.この本性の腐敗は、この世にある間、新生【ボーンアゲイン】した者の中にも残る(ローマ7:18,23;伝道7:20; Ⅰヨハネ1:8)。それはキリストによって赦され、また克服された【死につけてしまった】が、それ自体もその最初の活動【その主導権、意欲、誘惑】も共に、真実にまさしく罪である(ローマ 7:24,25;ガラテヤ5:17)。

 

 

第七章 神の契約について

 

1.神と被造物との間の隔たりは極めて大きいので、理性的被造物【理性という能力を与えられた者たち】が、彼らの創造主としての神に服従する義務を負っているにもかかわらず、神が契約という方法で表わすことをよしとされた、神の側のある自発的謙遜によらない限り(ルカ17:10; ヨブ35:7,8)、彼らは生命の報いを得ることはできなかった。

 

2.その上、人間はその堕落によって自らを律法の呪いのもとにおいてしまったので(創世2:17; ガラテヤ3:10; ローマ3:20,21)、主は恵みの契約を結ぶことをよしとされた。それによって、罪人に生命と救いをイエス・キリストによって価なしに提供し(ローマ8:3; マルコ 16:15,16; ヨハネ3:16)、彼らには救われるためにイエス・キリストへの信仰を要求し、そして永遠の生命に定められたすべての者が進んで信じ、また信じることができるために、聖霊を与える約束をされた(エゼキエル36:26,27;ヨハネ6:44,45; 詩110:3)。

 

3.この契約は福音のうちに啓示されている。最初にアダムに対して女の裔による救いの約束において(創世3:15)、後にはさらに進んだ手段によって表わされ、ついには完全な展開が新しい契約において完成した(ヘブル1:1)。この契約は御父と御子との間で選ばれた者の贖いについてなされた、永遠の契約の決定に基づいている(Ⅱテモテ1:9; テトス1:2)。この契約の恩恵【受けるに値しないあわれみとご好意】によってのみ、堕落したアダムの子孫のうち、救われたすべての者が(ヘブル 11:6,13; ローマ4:1,2以下; 使徒4:12; ヨハネ8:56)、生命と祝福ある不死とを受ける。人間は今や、アダムが無罪の状態にいた時の条件では、神に受け入れられることは全くできない。

 

 

第八章 仲介者キリストについて

 

1.神はその永遠の目的において、御自身のひとり子主イエスと結ばれた契約に従って、彼を神と人との間の仲介者(イザヤ42:1;Ⅰペテロ1:19,20)、預言者【教師】(使徒3:22)、祭司(ヘブル 5:5,6)、王(詩 2:6; ルカ 1:33; エペソ 1:23; ヘブル1:2; 使徒17:31)、神の教会のかしらまた救い主、万物の世嗣、世界の審判者として選び、任じることをよしとされた。神は永遠の昔から彼に、彼のすえ【神の子ら】となる民を与え(イザヤ53:10; ヨハネ17:6;ローマ8:30)、時至って【時が巡り】、彼によりて贖われ、召され、義とされ、聖とされ、栄光にいれられるようにされた。【贖われ=キリストの尊い血によって束縛から買い取られること。

召され=羊飼いの個人的で不可抗的な召しのこと。義とされ=神の目に正しいと宣言され、赦されること。聖とされ=主の力によって癒され、聖なるものに変えられること。栄光に入れられ=天の栄光に昇るとき、最終的に変容し、完全な美を帯びること

 

2.聖なる三位一体の第二人格である神の御子は真の永遠の神、御父の栄光の輝きであり、御父と同一の本質また同等であり、世界を創造し、創造した万物を保ち、支配しておられる。御子は、時満ちる【神によってあらかじめ決められた時が来る】におよんで自ら人間の本性(ヨハネ1:1,14;ガラテヤ4:4)、およびそれに伴うすべての本質的特性や共通の弱さをとられたが(ローマ 8:3; ヘブル 2:14,16,17;4:15)、罪はなかった。彼は聖霊により処女マリヤの胎に宿られた。聖霊は彼女に臨み、いと高き方の力が彼女を蔽ったので(ルカ1:27,31,35)、聖書に従って彼は女から、ユダ族から、アブラハムとダビデのすえとされた。そこでこの二つの、十分で、完全で、しかも異なっている性質が、変化も合成も混合もなしに、一人格のうちに不可分に結合された。この人格こそ、まことの神、またまことの人で、しかも一人のキリスト、神と人との間の唯一の仲介者である(ローマ9:5; Ⅰテモテ2:5)。【「変化も…なく」とは、キリストの神性が人間性に変容されたのではなく、後者が神性に加えられたことを意味する。二つの性質が混ざり合うことはありえなかったが、この2つの性質の崇高な結合には、無秩序も矛盾も不適合もなかったのである。

 

3.このように、主イエスは子としての神性に結合された人性において、聖霊によって限りなく、潔められ、油そそがれ(詩45:7; 使徒10:38;ヨハネ3:34)、御自身のうちにあらゆる知恵と知識の宝が備っていた(コロサイ2:3)。御父は彼のうちにすべての満ちみちたものが宿るのをよしとされた(コロサイ1:19)。これは彼が聖く、傷なく、汚れなく(ヘブル7:26)、恵みとまことに満ちて(ヨハネ1:14)、仲介者と保証人の職務を遂行するために、完全に備えられるためであった(ヘブル7:22)。この職務は彼が御自身で取られたのでなく、御父によって召されたものであり(ヘブル 5:5)、御父は彼の手にすべての権能と審判とを委ね、これを遂行するようにと彼に命じられた(ヨハネ5:22,27; マタイ28:18;使徒2:36)。

 

4.主イエスは、この職務を最も積極的に引き受け(詩 40:7,8; ヘブル10:5-11; ヨハネ10:18)、それを遂行するために律法の下におかれ【律法に服従させられ】(ガラテヤ 4:4; マタイ 3:15)、律法を完全に成就された。彼は我々が受け、また苦しむべき刑罰を受け(ガラテヤ3:13;イザヤ53:6;Ⅰペテロ3:18)、我々のために罪と呪いとなられ(Ⅱコリント5:21)、その霊魂において、【可能な限り最も大きな】最も激しい悲しみを忍び(マタイ26:37,38; ルカ22:44; マタイ27:46)、その肉体において、最も苦しい痛みに耐え、十字架にかけられて死に、死の状態に留まられたが、朽ち果てなかった(使徒 13:37)。三日目に、受難された同じ肉体をもって(ヨハネ20:25,27)、死者の中からよみがえり(Ⅰコリント15:3-4)、その体をもって天に昇られ(マルコ16:19;使徒1:9-11)、御父の右に座して【神の民のために】執り成しておられ(ローマ 8:34; ヘブル9:24)、世の終わりには、人間とみ使を審くために再び来られる(使徒 10:42; ローマ14:9-10;使徒1:11)。

 

5.主イエスは永遠の御霊によって、一たび【つまり、一度に永遠に】神に献げられたその完全な服従と御自身の犠牲によって、神の義を全く満たされ(ヘブル 9:14; 10:14; ローマ 3:25,26)、御父が彼に与えられたすべての者のために和解を得、天国の永遠の嗣業を買いとられた(ヨハネ17:2; ヘブル9:15)。

 

6.罪の代価はキリストの受肉後まで、キリストによって実際に支払われなかったが(Ⅰコリント 4:10*;ヘブル4:2;Ⅰペテロ1:10,11)、その価値と効力と恩恵とは世の初めより引き続いて、すべての時代の選ばれた民に、約束、予型、犠牲の中に、またそれらを通して伝えられた【描かれ、表現された】。これらの中に、彼は蛇の頭を砕くべき女のすえ【悪魔と罪を滅ぼすアダムの子孫のこと】、世の初めから屠られる子羊(黙示13:8)として、きのうもきょうも永遠までも変ることのない方として、啓示され、表象されていた(ヘブル13:8)。

[*訳者注:聖句不適合]

 

7.仲介の業においてキリストは、両性に従って行動され、それぞれの性に固有な【ふさわしい】ことをされる。しかしその人格の統一性のゆえに、一方の性質に固有なこと【厳密に適用されること】が、聖書ではときどき、他方の性質でよばれる【示されている】人格に帰されている(ヨハネ3:13;使徒20:28)。【一方では、人の子は天から来たとされているが、受肉されるまでは厳密には人の子ではなかった。もう一方では、神が血を流されたと言及されている。

 

8.キリストが永遠の贖いを成しとげられたすべての人に対して、彼はこれを確実に、有効に適用し、伝達される(ヨハネ6:37; 10:15,16; 17:9;ローマ5:10)。彼らのために執成しをし、みたまによって御自身と一つにし、みことばにおいて、またみことばによって救いの奥義を啓示し(ヨハネ17:6;エペソ1:9; Ⅰヨハネ5:20)、信じ従うように説得し(ローマ 8:9,14)、彼らの心をみことばとみたまによって治め、その全能の力と知恵とによってすべての彼らの【永遠のいのちを取り上げてしまうような】敵を征服される(詩110:1;Ⅰコリント15:25,26)。これらはみな彼の不思議な、計り知れない計画に最もよく適合した【完全に一致した】手段と方法でなされ(ヨハネ3:8; エペソ1:8)、すべてそれを得るためには、彼ら【選びの民】のうちにあらかじめ見られるいかなる条件にもよらない、全く自由で絶対の【完全な】恵みである。【キリストが救うのは、救われる人の立派な行いや信仰の反応を予見したからではない。いかなる罪人にも、功績も応答もまったくない。キリストは無条件に人を救われるのである

 

9.神と人との間のこの仲介者の職務は、神の教会の預言者、祭司、また王であるキリストにのみふさわしく【キリストのみが属している】(Ⅰテモテ 2:5)、その職務の全体にもせよ、一部にもせよ、彼から他のものに委譲されることはない。【聖徒も御使いも教会も祭司も、キリストの仲介者の職務を分かち合うことはできない

 

10. この職務【預言者ー祭司ー王】の数と種別は重要である。我々の無知のために、彼の預言者の職務を必要とし(ヨハネ1:18)、我々の神からの離反や、我々の最善の奉仕の不完全さは(コロサイ1:21; ガラテヤ5:17)、神と我々とを和解させ、神に受け入れられるように我々を献げるために、彼の祭司の職務を必要とし、また神に対する我々の嫌悪と神に帰るに全く無力なことから、我々の霊的敵対者より我々を救出し守るために、我々を説得し、服従させ、引き寄せ、支え、助け、保護して天の御国に至らせる、彼の王の職務を必要とする(ヨハネ16:8; 詩篇110:3; ルカ1:74,75)。 

 

 

第九章 自由意志について

 

1.神は、人間の意志に自己の選択に基づいて行動する本性的な自由や力を附与された【備えられた】。それは善または悪をなすようにと強制されたり、本性的ないかなる必然【備わっている、いかなる抑止力】によっても決定されたりすることはない(マタイ17:12; ヤコブ1:14; 申命記30:19)。

 

2.人間は【元々】無罪の状態においては、善であり、神に喜ばれることを意志し、また行う自由と力とを持っていた(伝道7:29)。しかしそれは可変的で、従ってそこから堕落することもありえた(創世記3:6)。【完全な自由には、必然的に不安定な要素、つまり反逆することを選べば堕落する自由が含まれていた】

 

3.人間は罪の状態に堕落することによって、救いを伴ういかなる霊的善への意志のあらゆる能力を失ってしまった(ローマ5:6; 8:7)。そこで生まれながらの人間【霊的人間とは逆のこと】として、その善に全く反対し、罪の中に死んだものとなったので(エペソ 2:1,5)自力では回心したり、その備えをすることはできない(テトス3:3-5; ヨハネ6:44)。

 

4.神が罪人を回心させて恩恵の状態に移される時、神は彼を罪のもとにある生まれながらの束縛より解放し(コロサイ1:13; ヨハネ8:36)、神の恩恵によってのみ、霊的善を自由に意志し、また行うことができるものとされる(ピリピ2:13)。しかしなお残っている腐敗のために、彼は完全にまたもっぱら善だけを意志しないで、悪をも意志する【悪をも望んだり、求めたりする】(ローマ7:15,18,19,21,23)。【回心した人の意志はまだ完全ではないが、回復されることによって大きく改善される。回心前の意志には、霊的な善を行おうとする望みも力もない

 

5.人間の意志は、ただ栄光の状態においてだけ、完全にまた不変的に善への自由を持つ(エペソ4:13)。 

 

 

第十章 有効な召命について

神の効果的で不可抗的召命

 

1.神が生命に予定した人々を、神は自ら定めまた承認した時に、神のみことばと御霊によって (ローマ 8:30;11:7; エペソ1:10,11;Ⅱテサロニケ 2:13,14)生れながらいた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恩恵と救いへと(エペソ 1:1-6)有効に召すことをよしとされる。彼らの心が神のことを理解するように、霊的にまた救拯的に照し(使徒 26:18;エペソ1:17,18)、彼らの石の心をとり去って (エゼキエル36:26)肉の心を与え、彼らの意志を新たにし、神の全能の力によって彼らを善に向かうように決断させ (申命記30:6;エゼキエル36:27;エペソ1:19)、また有効的に彼らをイエス・キリストに引きよせる。しかも彼らは神の恩恵により自発的にされて、最も自由に来るのである (詩110:3;雅歌1:4)。

 

2.この有効な召命は、神の自由で特別な恩恵だけによるものであり (Ⅱテモテ 1:9;エペソ 2:8)、人の中に予見される何ものかによるものでも、また被造物の中の何かの力や働きが神の特別な恩恵と協力することによるものでもない(Ⅰコリント2:14; エペソ2:5; ヨハネ5:25)。人は聖霊によって生かされ、新たにさせられ、それによってこの召命に答え、提供され、伝達された恩恵を受納することができるまでは、全くこの点については受け身であり、罪と咎の中に死んだものである。これもキリストを死より甦らせられた力による外はない(エペソ1:19,20)。

 

3.幼少時に死ぬ、選ばれた幼児は、よしとしたもう時と所と方法によって働かれる御霊を通して(ヨハネ 3:8)、キリストにより新たに生れ、救われる(ヨハネ 3:5,6)。御言葉の宣教によって外的に召されることのできない、他の選ばれた人々も同様である。

 

4.選ばれていない他の人々は、たとい御言葉の宣教で招かれ(マタイ22:14; 13:20,21;ヘブル 6:4,5)、御霊の一般的活動【理解と確信の指標】をうけても、み父によって有効に引き寄せられておらず、真にキリストに来ようともしないし、また来ることもできないので、救われることはできない(ヨハネ6:44-46; Ⅰヨハネ2:24,25)。ましてキリストの宗教を受入れない人々は、本性の光【彼らの自然な理解】や、自分の告白する宗教の戒律に従って、どんなに熱心に自分の生活を築き上げても、救われることはできない(使徒4:12; ヨハネ4:22; 17,3)。

 

 

第十一章 義認について

 

1.神は、有効に召した人々を価なしに義とされる(ローマ3:24; 8:30)。それは彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪を赦し、彼らの人格を義なるものとして認め受入れることによってである (Ⅰコリント1:30,31;ローマ5:17-19)。これは彼らの中で、また彼らによってなされた何かによるのではなく、ただキリストのゆえだけによる。信仰そのものや、信ずる行為、また他のいかなる福音的服従を、彼らの義として転嫁することによるのでなく(ピリピ3:8,9; エペソ2:8-9)、律法全体に対するキリストの能動的服従と、その死における受動的従順を彼らの完全でかつ唯一の義として転嫁する【それによって義とみなす】ことによってであり、彼らが信仰によってキリストとその義をうけ、それにより頼むことによる (ヨハネ1:12;ローマ5:17)。この信仰も彼ら自身からでるものでなく神の賜物である。

 

2.このようにキリストとその義を受けて、より頼む信仰が、義認の唯一の手段である(ローマ3:28)。しかし、義とされた人々にはこれだけでなく【これだけが救いの唯一の証拠というわけではなく】、常に他のすべての救いの恵み【特質】が伴い、死んだ信仰でなく、愛によって働くものである【それゆえ、神への愛に満ちた感謝に満ち、神にへりくだって献身し、神に知られるようになることを愛するのである】(ガラテヤ 5:6; ヤコブ2:17,22,26)。

 

3.キリストはその従順と死により、義としたすべての者の負債を全く支払われた。彼自身を犠牲とし、十字架の血によって、彼らの受けるべき刑罰を彼らに代って受け、彼らのために神の正義に対して適性、真実、全き償いをなされた(ヘブル10:14;Ⅰペテロ1:18-19; イザヤ53:5,6)。しかもキリストは、彼らのためにみ父によって与えられ、その服従と償いとは、彼らの身代りに受けられたものであり、両者とも、彼らの中にある何ものにもよらないで、価なしになされたので(ローマ8:32; Ⅱコリント5:21)、彼らの義認は全くの自由な恵みである。 これは神の厳正な公正と豊かな恩恵が、ともに罪人の義認において崇められるためである(ローマ3:26; エペソ1:6,7; 2:7)。

 

4.神は永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された【決定された】(ガラテヤ3:8;Ⅰペテロ1:2;Ⅰテモテ2:6)。キリストは時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らの義認のために甦えられた(ローマ4:25)。しかし、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは、彼らは義とされない(コロサイ1:21,22テトス3:4-7)。

 

5.神は、義とされた者の罪を赦しつづけられる(マタイ6:12; Ⅰヨハネ1:7,9)。彼らは、義認の状態から決して落ちることができないが(ヨハネ 10:28)、それでも彼らの罪によって、神の父としての不興の下におかれることがある(詩 89:31-33)。その状態においては、彼らが自らへりくだって、罪を告白し、ゆるしを乞い、信仰と悔い改め【継続的な歩み】とを再び新たにするまでは(詩 32:5; マタイ26:75)、通常、神のみ顔の光をとり戻せない。

 

6.旧約のもとでの信者の義認は、これらすべての点において、新約のもとでの信者の義認と全く同一であった(ガラテヤ3:9; ローマ4:22-24)。 

 

 

第十二章 子とされることについて

 

義とされた者すべてを、神はそのひとり子イエス・キリストによって、また彼のゆえに、子とする恩恵にあずかる者とされる【保証する】(エペソ1:5; ガラテヤ4:4,5)。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け(ヨハネ1:12; ローマ8:17)、神の御名を与えられ(Ⅱコリント6:18; 黙示 3:12)、子とされた者の霊を受け(ローマ8:15)、臆することなく恵みの御座に近づき(ガラテヤ4:6;エペソ2:18)、アバ父と呼ぶことができるようにされ、父からのようにあわれみを受け【あわれみに満ちた愛を示され】(詩103:13)、保護され(箴言 14:26)、必要を備えられ(Ⅰペテロ5:7)、懲らしめを受けるが(へブル12:6)決して捨てられず(イザヤ54:8,9; 哀歌 3:31)、むしろ贖いの日のために証印され(エペソ4:30)、永遠の救いの相続人として、すべての約束を受けつぐ(へブル1:14;6:12)。

 

 

第十三章 聖化について

 

1.キリストに結合され、有効な召命をうけ、再生された者は、キリストの死と復活の力によって、彼らの内に創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住する御霊によって(ヨハネ17:17; エペソ3:16-19;Ⅰテサロニケ5:21-23)、実質的に、人格的にさらに聖とされる(使徒 20:32; ローマ 6:5-6)。全身(※whole?)におよぶ罪の支配が破壊され【罪が彼らを完全に支配する時代は終わった】(ローマ6:14)、そのいろいろな欲はますます弱められ、抑制される【死に追いやられる】(ガラテヤ5:24)。また、すべての救いの恩恵【特質】にますます生かされ、強くされ(コロサイ1:11)、主を見るためには誰にも不可欠なあらゆる真の聖潔の実践に向かって行くものとされる(Ⅱコリント7:1; へブル12:14)。

 

2.この聖化は全人性にゆきわたるが(Ⅰテサロニケ5:23)、この世にある間は未完成【または不完全】である(ローマ7:18,23)。あらゆる部分になお腐敗の残りがとどまっているので、そこから絶えず相いれない戦いが生じ、肉【熱心】は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう(ガラテヤ5:17;Ⅰペテロ2:11)。

 

3.この戦いにおいては、残っている腐敗が一時きわめて優勢になるとしても(ローマ7:23)、聖化するキリストの御霊からの絶えざる力の供給によって、再生の側が勝利を得る(ローマ 6:14)。こうして聖徒たちは、恵みに成長し、神を畏れつつ聖潔を完成して行き【完成に向かって動いていく】、(エペソ4:15,16; Ⅱコリント3:18; 7:1)、かしらであり、王であるキリストがみ言葉のうちに定められたすべての命令に、福音的に服従しつつ、天の生活を追い求めて行く。

 

 

第十四章 救いの信仰について

 

1.選ばれた者が、それによって魂の救いに至ると信じることができる信仰の恵みは、彼らの心の中に働くキリストの御霊のわざであって(Ⅱコリント 4:13;エペソ 2:8)、通常、み言葉の宣教によってなされ(ローマ10:14,17)、またそれと共に、バプテスマや主の晩餐の執行、祈祷、その他神が定められた手段によって増進され、強化される(ルカ17:5;Ⅰペテロ2:2; 使徒20:32)。

 

2.この信仰によってキリスト者は、神御自身の権威のゆえに、み言葉に啓示されているすべてを、真実なりと信じ【救いの信仰は、聖書のすべてを神の言葉であると信じる】(使徒 24:14)、その内に、他のいかなる文書や、世にあるあらゆるものにまさる優越性を認める(詩19:7-10;119:72)。み言葉は神の属性にある栄光、キリストの性質や職務にある優越性、聖霊の活動と働きにある力や充実性をあらわしているので、キリスト者はそのように信じた真理にその魂を委ねる【完全に信頼する】ことができる(Ⅱテモテ1:12)。またそれぞれの章句が含む事柄に応じて異なって行動する。命令には服従し(ヨハネ15:14)、威嚇にはおののき(イザヤ 66:2)、この世と来るべき世についての神の約束は受け入れる(ヘブル11:13)。しかし、救いの信仰のおもな行為は、キリストと直接の関係を持っていて、恩恵の契約に基づいて、義認、聖化、永遠の生命のためにキリストだけを認め、受入れ、依り頼む(ヨハネ1:12; 使徒16:31; ガラテヤ2:20;使徒15:11)。

 

3.この信仰は、程度に強弱の差があるが(ヘブル5:13-14; マタイ6:30; ローマ4:19-20)、その最も弱いものであっても、(他の救いの恵みと同様に)、一時的な信者の信仰や一般恩恵とは種類、性質において全く異なっている(Ⅱペテロ1:1)。それゆえ、しばしば攻められ、弱められたりするが、勝利を得(エペソ 6:16;Ⅰヨハネ 5:4,5)、多くのうちに、信仰の創始者また完成者であるキリストによって(ヘブル12:2)、全き確信の獲得にまで成長する(ヘブル6:11;コロサイ2:2)。

 

 

第十五章 生命と救いに至る悔い改めについて

 

1.成長して【大人になって】から回心させられた、選ばれた者は、それまで生まれつきのままの【救われていない】状態の中に生き(テトス3:2-5)、さまざまの欲や快楽に仕えていたが、神はこのような者に、有効な召命において生命に至る悔い改めを与えられる。

 

2.善を行って、罪を犯さない者はなく(伝道7:20)、最善の人も、その中に宿る腐敗の力や欺きにより、激しい誘惑をうけて、大きな罪や【神に対する】挑発に陥ることがあるので、神は、恵みの契約のうちに、そのように罪を犯し堕落した信者が、救いに至る悔い改めを通して、再び新たにされ【回復され】るようにと憐れみ深く備えられた(ルカ 22:31,32)。

 

3.この救いの悔い改めは福音の恵みであり(ゼカリヤ12:10;使徒11:18)、それによって人は、自分の罪のさまざまな悪を聖霊によって悟るようになり、キリストにある信仰によって、敬虔な悲しみと罪の憎悪、自己嫌悪【または恥じらい】とをもって自分を謙虚にし(エゼキエル 36:31;Ⅱコリント 7:11)、御霊の助けをうけて、何事も神に喜ばれるように、み前を歩むことを目的とし努力【または渇望】する、赦しと恩恵の力を祈り求める。

 

4.悔い改めは、死の肉体【継続的な腐敗】とその活動のゆえに、われらの全生涯を通じて続けられるべきであり、従って各自の個々の罪を、個別に悔い改めることが各人の義務である【すなわち、個々の罪を挙げて、それを悔い改める】(ルカ19:8;Ⅰテモテ1:13,15)。

 

5.神は、恵みの契約において、キリストによって、信仰者を救いに保持するよう定められたので、どの様な小さい罪であっても滅びに至らないものはないとはいえ(ローマ6:23)、どの様な大きな罪でも、悔い改めた者に滅びをもたらすことはない(イザヤ1:16,18;55:7)。それで悔い改めについて絶えず宣べ伝えることが必要【不可欠】である。

 

 

第十六章 善いわざについて

 

1.善いわざとは、神がその聖い御言葉で命じられたものだけであり(ミカ 6:8; ヘブル 13:21)、御言葉の保証【承認】なしに、盲目的熱心から、またはなんらかの善意の口実【主張】によって、人間が企図するものではない(マタイ15:9; イザヤ29:13)。【したがって、慈善活動などは、それ自体が「善いわざ」というわけではない。「善いわざ」は、神と聖書の呼びかけと命令に従うことから始まる。 それらに従わずに生きている未信者は、「善いわざ」を行うことはできない(7節参照)

 

2.神の戒めに服従して行われるこれらの善いわざは、真の生きた信仰の結実、また証拠である(ヤコブ2:18,22)。これによって信者はその感謝を表わし(詩 116:12,13)、確信を強め(Ⅰヨハネ 2:3,5;Ⅱペテロ 1:5-11)、兄弟たちの徳を建て(マタイ5:16)、福音の告白【言葉による証や行いの美しさを加える】を飾り、敵の口を封じ【福音に反対する者たちを、信者の振る舞いによって黙らせること】、神の栄光を表わす(Ⅰテモテ6:1;Ⅰペテロ2:15; ピリピ1:11)。信者はキリスト・イエスにあって、これらのことのために創られた神の作品であり(エペソ2:10)、聖潔に至る実を結び、終局である永遠の生命を持つようになる(ローマ6:22)。

 

3.善いわざを行う能力は、決して自分自身によるものではなく、全くキリストの御霊からである(ヨハネ15:4,6)。彼らがそれらを行う者となるためには、【回心の時に】既に受けている恩恵のほかに、彼らの中に働いて、神が喜ぶことを志し、行わせる同じ御霊の実際的な働きかけが必要である(Ⅱコリント3:5; ピリピ2:13)。あたかも御霊の特別な活動【衝動または動機】がなく、何の義務【個人的に努力をすること】を果たす責任もないかのように、このことに怠慢となってはならないし、むしろ自分の中にある神の恩恵を呼び起すことに勤勉でなければならない(ピリピ2:12;ヘブル6:11,12; イザヤ64:7)。

 

4.この世で可能な最高の服従に到達する人々でさえ、神の要求以上に行なったり、またそれを越えて行なうことができないだけでなく、果たさなければならない義務の多くのことにも達していない【超えて行うこと「義務以上の行為 Work of supererogation」の教理(カ)は不可能なことである。これは(ローマ教会によれば)、その人に要求されている以上に余分に行った、善い行いの功績を達成すると言うものであり、その功績は 「積立金」として他の人に与えられるとされている。ローマ教会によれば、聖母マリアはこれを達成しており、他の多くの人々も同様であるとしている】(ヨブ9:2,3; ガラテヤ5:17; ルカ17:10)。

 

5.我々の最善のわざによっても功績【値すべきこと】として、神のみ手から罪の赦しや、永遠の生命を得ることはできない。それは善いわざと来るべき栄光との差に甚だしい不釣合があり、神と我々との間に無限の距離があって、益することも、我々の前の罪の負債を償うこともできないからである(ローマ3:20,4:6; エペソ2:8,9)。我々がなし得る限りを全て【我々の最善】なしたとしても、自分の義務を果したに過ぎず、無益なしもべでしかない。またそれが【神ご自身から発せられた】善であるのは、御霊から出ているからであり【したがって、その功績は真に我々のものでは無く】(ガラテヤ5:22,23)、我々によってなされることは、汚れや(イザヤ64:6;詩篇143:2)、多くの弱さ、不完全さが混入していて、神の審判の厳しさに耐えられない。

 

6.それにもかかわらず、信仰者そのものはキリストによって受け入れられ、彼らの善行もまた、キリストにおいて受け入れられる(エペソ1:6;Ⅰペテロ2:5)。それらがこの世で、神の目に全く非難され責められる点がないかのようではなくて、神がそれを御子において見られるゆえに、多くの弱さや不完全さを伴っていても、誠実なものを受け入れ、報いてくださることをよしとされる(マタイ25:21,23;ヘブル6:10)。

 

7.再生しない人々の行なう業は、たとえ、その事柄が神の命じられるものであり、自他共に有益であるとしても(Ⅱ列王10:30;Ⅰ列王21:27,29)、信仰によって潔められた心からでているのでなく(創世4:5;ヘブル11:4,6)、御言葉に従った正しい仕方からでもなく(Ⅰコリント13:1)、神の栄光という正しい目的のためでもないので(マタイ6:2,5)、それらは罪深く、神を喜ばせることはできず、神から恵みを受けるにふさわしくもない(アモス5:21,22; ローマ9:16; テトス3:5)。それでも、それを怠れば、彼らは一層罪深く、神の不興を増す(ヨブ21:14,15;マタイ25:41-43)。

 

 

第十七章 聖徒の堅持について

恵みの状態における堅持あるいは揺るぎない維持

 

1.神がその愛する御子により受入れ、御霊により有効に召し、潔め、貴い信仰を与えた神の選びの人々は、恵みの状態から、全面的【完全に】にも、最終的にも堕落することはあり得ない(ヨハネ10:28,29; ピリピ1:6; Ⅱテモテ2:19; Ⅰヨハネ2:19)。かえって彼らは、その状態に最後まで確実に【絶対的に】堅持し、永遠に救われる。神の賜物と召しとは変ることなく【神は決して考えを変えることはない】(従って神は彼らの内になおも信仰、悔い改め、愛、喜び、希望などの御霊の朽ちることのないすべての恵みを生み出し、育てられる)。多くの嵐や洪水が起こって彼らを打つことがあっても、信仰によって結びついている基礎や岩から、彼らを引き離すことは決してできない。それでも、不信仰【信仰の欠如も含む】やサタンの誘惑により、神の光や愛をみる視力が一時的に曇らされて、不明確になるかも知れないが(詩 89:31,32; Ⅰコリント11:32)、神はそれでも変ることがなく(マラキ 3:6)、彼らは、神の力によって、永遠から彼らが神の手のひらに刻みつけられ、生命の書にその名が録されている贖われた状態を享受する救いにまで確実に守られる。

 

2.聖徒のこの堅持は、彼らの自由意志にではなく、父なる神の自由で、不変な愛より出る選びの聖定の不変性【変わることのないご性格】と(ローマ 8:30; 9:11,16)、イエス・キリストの功績と執成しの効力【イエス・キリストがその人のために死なれたならば、その人は救われないはずがない】(ローマ 5:9,10; ヨハネ 14:19)、『本当の聖徒が持っている』キリストとの一致【神は愛する者を決して見放さない】、神の誓い【厳粛な宣言】(ヘブル 6:17,18)、【決して失敗することのない】御霊と【決して死ぬ事のない】神の種の彼らへの内住(Ⅰヨハネ 3:9)および恵みの契約【この契約は、救われたたましいが決してそむくことがないように定めている】の性質に依存している。これらすべてから堅持の確実性と無謬性がでてくる。

 

3.たとえ彼らがサタンと世の誘惑、自分の内に残存する腐敗の優勢、自分を保持する手段を怠ることによって、憂うべき罪に陥り(マタイ 26:70,72,74)、しばらくそのうちに留ることがあり、これによって、彼らが神の不興を招き(イザヤ64:5,9; エペソ 4:30)、神の聖霊を憂えさせ、慰めや恩恵を失い(詩51:10,12)、心を頑なにし、良心をそこない(詩32:3,4)、他の人々を傷つけ、はずかしめ【怒りを買い】、自分に一時的審判【現世での懲らしめ】をもたらすことがあっても(Ⅱサムエル 12:14)、なおも【そのすべてに関わらず】彼らは【時にかなって】悔い改めを新たにし(ルカ22:32,61,62)、キリスト・イエスへの信仰によって終わりまで堅持される。