【】はDr Peter Masters版注釈より翻訳、第二ロンドン信仰告白訳の本文は東京聖書教会、第二ロンドン信仰告白より。

 

C.H.スポルジョンによる序文

[1855年、C.H.スポルジョンは、バプテスト信仰告白の再版を発行した。スポルジョンの序文の言葉は、この壮大な教義に関する記述の偉大な価値を完璧に表現している]

この古き文書は、私たちの間で最も確かに信じられている事柄の最も優れた縮図である。三位一体のエホバの御手によって、われわれは栄光ある福音の偉大な点を忠実に守ってきた。

この小冊子は,権力的な規則や信仰の規範としてあなた方が縛られるために発行されたものではなく,論争に際してあなたを助け,信仰を確認し,義において成長させるための手段として発行されたものである。ここで、われわれの教会の若い教会員は、自分の中にある希望の根拠を、聖句による証明によって示すことができるようになるのである。

あなたがたの信仰を恥じてはならない。それが殉教者、告白者、改革者、聖人たちの古代の福音であることを思い起こしなさい。何よりも、それは地獄の門が打ち勝つことのできない神の真理である。あなた方の生活があなた方の信仰をかざり、あなた方の模範があなた方の信条を証するようにしなさい。何よりも、キリスト・イエスにあって生き、キリスト・イエスにあって歩み、キリスト・イエスによって明らかに承認され、聖霊によって所有されている教え以外は信用してはならない。あなたがたのためにここに記されている神の言葉に堅く結ばれなさい。

 

 

1689年バプテスト信仰告白の起源

1644年、ウェストミンスター信仰告白が発表される前に、パティキュラー・バプテストが最初に発表した信仰告白がある。

この信仰告白は、ふさわしい生活を送る人々が浸水礼することを強調し、選び、特定の贖い、人間の意志の堕落状態、聖徒の堅持に関する条項を含めることによって、パティキュラー・バプテストとジェネラル・バプテストを区別した。ロンドン信仰告白として知られるこの文書は、1651年に改訂された(クエーカー教徒の「内なる光」による聖書解釈に対抗するための記述であった。)

1643年、イングランド国教会の序列制を廃止した議会が、ウェストミンスター神学者会議を招集し、教会の統治、礼拝、教義を制定させた。優れたピューリタンで構成されたこの集会は、1645年の初めから信仰告白の作成に着手し、60人から80人の神学者たちが会議に出席した。

この信仰告白は完成までに1年を要したが、「聖書によってそのすべての点を証明する」ための注釈を加えるために、議会によって編纂者に再び差し戻された。

会衆派は(1658年のサヴォイ会議で)ウェストミンスター信仰告白を信仰の基礎とし、修正を加えた。

そして1677年、パティキュラー・バプテストもウェストミンスター信仰告白を自分たちの新しい信仰告白の基礎とした。彼らは、教会、礼典、教会政治に関する条文に変更を加え(時にはサヴォイ宣言に倣った)、また他のいくつかの箇所をわずかに変更し、拡張した。これは(激しい迫害の最中に)『第二ロンドン信仰告白』として出版された。ロンドンと国内の多くのキリスト者(信仰を表明して浸水礼を受けた)の信徒の長老や兄弟たちによって発表された。

バプテストに対する迫害が終わった直後、この信仰告白は、※1689年にロンドンに集まったパティキュラー・バプテスト教会の代表者たちによって採択され、確認された。そして、この信仰告白はパティキュラー・バプテストの不変の基準となった。アメリカでは、有名なフィラデルフィア信仰告白がこのバプテスト信仰告白に由来している。

1689年バプテスト信仰告白に由来する。フィラデルフィア・バプテスト協会は、1724年に正式に1689年バプテスト信仰告白への支持を確認した。そして1742年、同協会は2つの条項を追加し、若干の変更を加えて信仰告白を再版した(印刷はベンジャミン・フランクリン)。この告白はフィラデルフィア信仰告白としてアメリカで知られるようになった。

 

(※イギリスにおいて名誉革命が発生した年。イギリスの宗教改革に逆行する形でカトリック信仰を保有する王、ジェームズ2世が即位したが、血を流す事のない革命が発生しジェームズ2世は失脚。以降、イギリス国王の権限は大きく制限され、信仰の自由が保障される事になった。尚、名誉革命以前の宗教改革期、英国国教会が優勢な時代は、国王/女王の臣民として、赤子でも誰でも英国国教会のキリスト者として住民登録、洗礼をする必要があり、浸水礼を受けるものは迫害、処刑された)

 

 

第一章     聖書について

 

1. 聖書は救いの知識、信仰、および服従のすべてについての唯一の、十全で、確実また誤りない規範である(Ⅱテモテ3:15-17; イザヤ8:20; ルカ16:29,31; エペソ2:20)。【人がどのようにして救われるか、救いにいたる信仰の性質。「十全」と言う言葉は、聖書には我々が知るべき全てが含まれているという意味である。そして、聖書は起こり得る全ての問題を扱っており、従って神は聖書以外のあらゆる物を霊感を用いて補完することはしないのである】自然の光【自然の知性】また創造と摂理の御業は、人【未信者】が弁解できないほどに神の善と知恵と能力とを明示している(ローマ1:19-21; 2:14-15; 詩篇19:1-3)。しかしそれらは救いに必要な、神およびその御旨についての知識を与えるに十分でない。したがって主は、いろいろな時期に種々の方法【それぞれ違った方法】で、ご自分の教会【ご自分の民】にご自身を啓示し(ヘブル1:1)、御旨を宣言し、後には真理をよりよく保存し、宣布するために、また教会を肉の腐敗【人間の思いつきは直ちに教会を弱体化させる】やサタンおよび世の悪意に対して一層確実に確立し、かつ慰めるために、それらをことごとく文書に託するのをよしとされた(箴言22:19-21;ローマ15:4;Ⅱペテロ1:19-20)。これが聖書を最も必要【絶対的に必要】なものとし、御旨をご自分の民にあらわした神の従前の啓示方法は今は終わっている。

 

2. 聖書には、または記録された神の言葉という名のもとに、今や旧新約の全部の書が含まれており、それらは次の通りである。

旧約聖書
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記第1、サムエル記第2、列王記第1、列王記第2、歴代誌第1、歴代誌第2、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書

新約聖書
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書、使徒の働き、ローマ人への手紙、コリント人への手紙第1、コリント人への手紙第2、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙第1、テサロニケ人への手紙第2、テモテへの手紙第1、テモテへの手紙第2、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙第1、ペテロの手紙第2、ヨハネの手紙第1、ヨハネの手紙第2、ヨハネの手紙第3、ユダの手紙、ヨハネ黙示録、

これらすべては、信仰と生活の規範となるために、神の霊感によって与えられたものである(Ⅱテモテ3:16)。

 

3. 通常、外典とよばれている書物は神の霊感によるものではなく(ルカ 24:27,44;ローマ3:2)、聖書の正典(または規範)の一部ではない。したがって神の教会においては何の権威もなく、また他の人間による著作と違ったもののように承認【尊重】したり、使用してはならない。

 

4.聖書を信ずべきもの【我々の従順を求めているもの】としているその権威はいかなる人や教会の証言にも依存せず、全くその著者である(真理そのものであられる)神に依存している(Ⅱペテロ1:19-21; Ⅱテモテ3:16;Ⅰテサロニケ2:13;Ⅰヨハネ5:9)。したがって、それが神の言葉であるゆえに聖書は受け入れられる【それに従う】べきである。

つまり神が話される時、そのご命令や教えに疑問を呈するべきでは無いのである。我々は伝道者が言った事が理にかなっていて、自分の為になり、正しさを証明したから信じる、と言うのではなく、聖書が神の言葉そのものだから信じるのである。ローマカトリックは、教会が聖書を識別し、与え、その上で聖書が一番に来る事を教会が保証するとしている。つまり、教会のみが聖書を解釈する力があるとしているのである。しかし、聖書が一番に来るとは、神によって与えられるものであり、神ご自身により承認されたものであり、そして聖書が教会を支配するのである

 

5.われわれは神の教会の証言によって、聖書を高くまた貴く尊重するように動かされ、導かれるようになる。また内容の天的性質、教理の有効性【有効性と教えの力】、文体の荘厳性【文体の独特さ】、すべての部分の一致【すべての部分が完全に一致していて、それぞれに矛盾がない】、(神にすべての栄光を帰す)全体の意図、人の救いの唯一の方法に関する十分な開示、その他多くの比類のない優秀性、また全体の完全性などは、聖書がそれ自体神の言葉である事ことを豊かに証明する論証である。それにもかかわらず、その誤りなき真理と神的権威についてのわれわれの完全な納得と確信は、御言葉により、また御言葉とともに、われわれの心の中に証言したもう聖霊の内的御業からでる(ヨハネ 16:13,14; Ⅰコリント 2:10,11,12; Ⅰヨハネ2:2,20,27)。

 

6.神ご自身の栄光、人の救い、信仰および生活に必要なすべてのことがらに関する神の全計画【または目的】は(Ⅱテモテ3:15,16,17; ガラテヤ1:8,9)、聖書に明確に規定されているか、または必然的に含まれている。【「必然的に含まれている」とは直接的に言及されていないが、神が求められている事を指す。その多くは各聖書箇所をもって、明確で論理的な結論が描かれる】これに対しては、聖霊の新しい啓示であれ人の伝承であれ、いかなる場合にも附加されてはならない。しかし、われわれはみ言葉の啓示されている事柄の救いの理解について、聖霊の内的啓明が必要であることを認め(ヨハネ6:45; Ⅰコリント2:9-12)、また神礼拝と教会政治に関しては、【全ての】人間の行動【活動】や社会に共通していて、本性の光【常識】や常に守らなければならないみことばの一般的原則に基づくキリスト者としての配慮によって規定されなければならない状況があることを認める(Ⅰコリント 11:13,14; 14:26,40)。【聖書が常にその場の方針や、明確な行動のポイント、良い命令を与えるわけではない

 

7.聖書の中のすべての事柄はそのままでは一様に平易ではなく、またすべての人に同じ様に明白ではないが(Ⅱペテロ3:16)、救いのために知り、信じまた守らなければならない【不可欠な】事柄は聖書の中のどこかに極めて明白に提示され開陳されていて(詩19:7;119:130)、教育があるものだけでなく教育のないものも、通常の方法を適切に用いてこれを十分に理解できる。【通常の方法とは、みことばの説教に耳を傾け、敬虔な心、教えを受ける心、祈りをもってみことばを読むことである。 また、必要に応じて信者に助けを求めることである

 

8.(昔の神の民の言語であった)ヘブル語の旧約聖書(ローマ 3:2)と(著作の時代に諸国民に最も広く知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは神によって直接霊感され、神の特別な【並外れた】保護と摂理によってあらゆる時代に純正に保たれたので、信頼すべきものである【信じるに値するべきである】(イザヤ8:20)。従ってすべての宗教上の論議【教義上の論議】において教会は究極的にはこれに訴えるべきである(使徒 15:15)。しかしながらこれらの言語は、聖書に接する権利と関心とをもち、神を恐れつつこれを読みまた探求するよう命ぜられている(ヨハネ5:39)すべての神の民に知られてはいないので、神の言葉が豊かにすべての人々に宿り(コロサイ 3:16)、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために、聖書に接するすべての国民の自国語に翻訳されるべきである(Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,28)。

 

9.聖書解釈の無謬の基準は聖書自身である(Ⅱペテロ1:20,21;使徒15:15,16)。従って聖書のどこでも(多用でなくたったの一つの)真実で完全な意味について疑問がある場合、もっと明白に語っている他の箇所によって探求されなければならない。【「多用でなくたった一つである」という言葉は、聖書が単なる書物の図書館や、重要な文章や洞察のコレクションではないことを意味している。 神の言葉である聖書は、矛盾や混乱のない、調和のとれた一つのメッセージなのだ。 従って、ある聖書箇所を他の聖書箇所を参照して解釈することは、信頼に足る解釈方法であることに相違ない

 

10. 宗教上のすべての論争を決裁し【解決し】、会議のすべての決議、古代の著作家の見解、人々の教理、個人の精神【人それぞれの考え】を審査し、その判定に安んじて依拠すべき最高の審判者は聖霊によって与えられた聖書以外の何ものでもなく、そのように与えられた聖書にわれわれの信仰は最終的に帰着する【満たされる】のである(マタイ 22:29,31;エペソ 2:20;使徒28:23)。【生まれながらの人間は自分の意見と推論を信じるが、信者の信仰は最終的に聖書の論断を信じる

 

 

第二章     神および聖なる三位一体について

 

1.主なる我等の神は唯一の生ける真の神であり(Ⅰコリント 8:4,6; 申命 6:4)、その存在は(エレミヤ10:10; イザヤ48:12)御自身の中にまた御自身だけに基づき【その力は御自身の内からのみ汲み取られ、御自身の外からは何も必要とされない】(出エジプト3:14)、存在と完全さにおいて無限【境界もなく、終わりも無い】、その本質は御自身の他何人にも知られず【把握することも理解することもできない】、最も純粋な霊であり(ヨハネ 4:24)、目に見えず(Ⅰテモテ 1:17;申命4:15,16)、身体も部分も欲情【性的な愛、貪欲、人間的な憎しみ、短気など、不安定で人を支配し、駆り立てる感情】もなく、唯一不滅【不死は神からのものである】をもち、何人も近づくことのできない光のうちに住み、不変【変わることがない】(マラキ3:6)、遍在【測ることができない】(Ⅰ列王8:27;エレミヤ 23:23)、永遠(詩 90:2)、不可測【人間の理解や想像をはるかに超えている】、全能【すべてにおいて力強い】(創世17:1)あらゆる点で無限、最も聖く(イザヤ6:3)、最も賢く、最も自由、最も絶対【つまり独立していて、完成されており、何とも混じることがない状態】であり、すべてのことを御自身の不変【変わることのない】で最も義しい御旨の計画【または目的】に従って(箴16:4;ローマ11:36)御自身の栄光のために行い、最も愛と恩恵と憐れみと寛容とに満ち、善と真実に豊かで、不法【私たちの道徳的倒錯やねじ曲がった状態】、違反【(神に対する)反逆】、罪【神の律法に対する実際の罪】をゆるし(出エジプト 34:6,7;ヘブル11:6)、熱心に彼を求める者に報いる方、その審判においては最も公正で(ネヘミヤ 9:32,33)恐るべく【畏怖するべき】、すべての罪を憎悪し(詩 5:5,6)、とがある者を決してゆるさない方である(出エジプト34:7; ナホム1:2,3)。

 

2.神は御自身のうちに、御自身においてすべての生命 (ヨハネ 5:26)、栄光、善(詩119:68)、祝福を持ち、また御自身だけで御自身に対し、全く充足しておられ、彼が造られたどんな被造物をも必要とせず(ヨブ22:2,3)、それから何の栄光【または益】を得られることなく、御自身の栄光をそれらの中に、それらによって、それらに対して、それらの上に表わされる。神は全ての存在の唯一の本源【源泉】であり(ローマ 11:34,35,36)、万物は彼から出て、彼によって成り、彼に帰する【神は全人類の源であり、維持者であり、目的である】。神は御自身のよしとされることを何事でも万物によって、万物のために、また万物の上に行なうために、全被造物の上に至高の主権的支配を持っておられる(ダニエル4:25; 5:34,35)。彼の目にはすべてのことが開かれて明らかであり(ヘブル4:13)彼の知識は無限、無謬、また被造物に依存せず【神は、天使や人間の「報告」によって何が起こったのかを知るのでは無い】(エゼキエル 11:5; 使徒15:18)、従って何一つとして彼には偶然【出来事に左右される】とか不確実なものはない。神はそのすべての計画【ご計画や目的】、すべての行為、すべての命令において最も聖であられる(詩145:17)。神に対しては、天使や人間が被造物として創造主に負う礼拝、奉仕、服従、そのほか神が彼らに要求するをよしとされる事はすべて、当然ささげられなければならない。

 

3.この神的な無限の存在者には同一の本質【人格またはご存在】、能力、永遠性【時間に縛られないこと】をもち、それぞれが完全なしかも分割されない神的本質を備えている【それぞれは完全に神だが、神格は別れていない】(出エジプト 3:14; ヨハネ 14:11;Ⅰコリント 8:6)父、言(または子)、および聖霊の三つの人格がある(Ⅰヨハネ 5:7; マタイ 28:19; Ⅱコリント 13:13)。み父は何ものにもよらず、生れもせず、出もせず、み子は永遠に父から生れ(ヨハネ1:14,18),聖霊は父と子より出たが(ヨハネ15:26; ガラテヤ4:6)、みな無限で始めなく、それゆえに一人の神であり、その本性や存在においては分割されない【神それぞれの人格には何の違いもない】が特有の相対的属性【つまり、それぞれが別々であることや、それぞれの明確な役割によって】や人格的関係【三位一体の神がとる家族形式】において区別される。この三位一体の教理は神とわれわれのすべての交わりおよび神への慰めにみちた依存の基礎である。【もし三位一体の神の人格同士が親しみやすい方法で互いに関わり合っているとすれば、知ることも知られることも神の『本性』であることを教えている。 したがって、この教理は、私たちが個人的な関係を求めて主を求める基礎となる

 

 

第三章     神の聖定について

神の永遠のご決断または意思。神のご指示。神の永遠のご計画

 

1.神は御自身で【神ご自身がご決定され】全き永遠から御自身の意志の最も賢く、聖い計画によって、起こり来たる全てのことを自由にまた不変的に定められた(イザヤ 46:10; エペソ 1:11;ヘブル6:17; ローマ 9:15,18)。【神のご計画は他の何かに強制されて出てきたものは何一つなく、神のすべてのご意向はわずかな変更もなく実行される】しかし、それによって神は罪の作者とはならず(ヤコブ 1:15,17;Ⅰヨハネ1:5)、それといささかも関係【互いの責任】を持たず、また被造物の意志に侵害が加えられることもなく【罪のために造られたものは何一つ無い造られたものは何もなく】、第二原因の自由や偶然性が奪われることもなく【つまり、因果律の自由な働きが妨げられることもなく】、むしろ確立されるようになされ(使徒4:27,28; ヨハネ19:11)、これによって全てのことを処理する【出来事の成り行きを整える】知恵や、その聖定の遂行の権能や誠実をあらわされた【ここでいう誠実とは、神ご自身の聖なる御性質と啓示された御言葉に揺るぎなく忠実であることを意味する】(民数23:19; エペソ1:3,4,5)。

 

2.神は推定されるあらゆる状況のもとに生起するかも知れないことやまた生起することのできる事柄を全て知っておられるが(使徒 15:18)、それを未来のこと、またはその状況のもとで【いずれにせよ】生起するに違いないと予見したから聖定されたのではない(ローマ9:11,13,16,18)。

 

3.神の聖定によって、神の栄光が現われる【表現されたり、明らかにされる】ために、人間と天使のある者たちは、イエス・キリストにより神の栄光ある恩寵の讃美のため(エペソ 1:5,6)永遠の生命に予定され、前定されている【すなわち、神の栄光の恵みが現され、賛美されるためである】(Ⅰテモテ 5:21; マタイ 25:41)。他の者は、神の栄光の公正にほまれあるために、自分の罪のうちに行動し正当な審判に至るようにされている(ローマ 9:22,23; ユダ 4)。

 

4.このように予定されたり、前定されている天使と人間は個別的にまた不変的に指定されており、その数も確実で決定されているので、増加も減少もできない(Ⅱテモテ2:19;ヨハネ 13:18)。

 

5.生命に予定された人々を、神は、世の基が置かれる前から永遠不変の目的と、み旨の隠れた計画とよしとされる所に従って、キリストにおいて永遠の栄光にと選ばれた(エペソ 1:4,9,11; Ⅱテモテ 1:9; Ⅰテサロニケ 5:9)。これは神の自由な恩寵と愛とだけによるものであり、被造物のうちにある何かが、【どんな要因でも】神をこのように動かす条件や原因であったのではない(ローマ 9:13,16; エペソ1:6,12)。【「人格」のことは考慮されていない

 

6.神は、選ばれたものを栄光へと定められたので、み旨の永遠で最も自由な目的によって、それに至る【救いをもたらすための】全ての手段をもあらかじめ定められた(Ⅰペテロ 1:2; Ⅱテサロニケ2:13)。これにより、選ばれた者は、アダムにおいて堕落したが(Ⅰテサロニケ5:9,10)、キリストによって贖われ、時至って働くその御霊によって、キリストへの信仰にと有効に召され(ローマ8:30; Ⅱテサロニケ2:13)、義とされ、子とされ、み力によって信仰を通して救いに至るまで保たれる(Ⅰペテロ1:5)。他の者は誰もキリストによってわれ、有効に召され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることなく、ただ選ばれた者だけである(ヨハネ 10:26; 17:9; 6:64)。

 

7.予定というこの高度に神秘な教理は、御言葉に啓示された神のみ旨に留意し、またそれに従順に従う人々が、自分の有効な召命【救いの経験のこと】の確かさから自分の永遠の選び【永遠に保証されること】を確信するように、特別な慎重さと注意とを持って取り扱われなければならない(Ⅰテサロニケ1:4,5; Ⅱペテロ 1:10)。それによってこの教理は、福音に真剣に従う人々すべてに、神への讃美と崇敬と賞讃の材料となり(エペソ 1:6; ローマ 11:33)、また謙遜と勤勉と(ローマ11:5,6)豊かな慰めの資料となる(ルカ10:20)。

 

 

第四章     創造について

 

1.初めに、父・子・聖霊の神は(ヨハネ 1:2,3; ヘブル 1:2; ヨブ 26:13)、御自身の永遠の力と知恵と善の栄光を現わす【表現されたり、明らかにされる】ために(ローマ1:20)、世界とその中にあるすべてのものを(コロサイ 1:16; 創世2:1,2)、見えるものも見えないものも、六日の間に、すべてをきわめて良く、創造することをよしとされた。

 

2.神は、他のすべての被造物を造られた後に、人間を、男と女に(創世1:27)、理性ある不死の霊魂をもち(創世2:7)、創造された目的である神への生命にふさわしいものとして創造された。彼らは知識と義と真の聖において神の像に従って造られ(伝道7:29; 創世1:26)、心にしるされた神の律法と(ローマ 2:14,15)、それを実行する力を持ち、しかも違反する可能性の下で、変化しうる自分の意志の自由に委ねられた【反抗するのも自由であるがその結果として不安定になる可能性がある】(創世3:6)。

 

3.心にしるされた律法のほかに、彼らは善悪を知る木から食してはならないとの命令をうけた(創世2:17; 3:8-10)。これを守っている間は彼らは神との交わりのうちに幸いであり、被造物を支配して【領有権と支配権を有して】いた(創世1:26,28)。

 

 

第五章 神の摂理について

神の監督と慈しみ深いご配慮

 

1.万物の良き創造者である神は、その無限の力と知恵とにおいて、すべての被造物や事物を、大から小に至るまで(マタイ10:29-31)、最も賢く聖い摂理によって、彼らの創造された目的のために、【神は、被造物が創造された目的を果たすために、被造物を支配し、養われる】無謬の予知と、御自身の意志の自由で不変のご計画に従って(エペソ1:11)、その知恵と力と公正と無限の善とあわれみの栄光の讃美へ【この目的を満たされるため】と、支え、導き、処理し、支配される【このフレーズは、すべての被造物が創造された「目的」、すなわち、神の属性が表現され、明らかにされ、神が栄光を受けるということである】(ヘブル1:3; ヨブ38:11; イザヤ46:10,11;詩135:6)。

 

2.第一原因である神の予知と聖定との関係において、万物は不変的に、誤りなく起こり(使徒 2:23)、何事も、偶然とか神の摂理なしに起こることはない(箴言 16:33)。とはいえ、同じ摂理によって神はそれらが第二原因の性質に従って、必然的にか自由にか、または偶然に起こるように定められている(創世8:22)。【神は、自然の法則、人間の自由で独立した行動、市勢の活動、あるいは「原因と結果」の法則など、第二原因の活動を通じて、出来事が起こるように手配し、許可される。神はご自身の目的を実現するために、そのような手段を用い、働かれる

 

3.神は、通常の摂理においては、手段【2.と関連する】を用いられる(使徒27:31,44; イザヤ55:10,11)。しかし御自身がよしとされる場合には、手段を用いないで(ホセア 1:7)、それを越え(ローマ4:19-21)、それに反して(ダニエル3:27)自由に行動される。【神はお望みになれば、自然の法則、人間の決断、状況を覆すことがお出来になる

 

4.神の全能の力、測り知れない知恵、無限の善は、その摂理の中によく現われ【完全に表現され】、神の決定的な計画【確実な計画】は、最初の堕落や、み使いと人の他の全ての罪深い行動にまで及んでいる(ローマ11:32-34; Ⅱサムエル24:1; Ⅰ歴代21:1)。しかも単なる許容によるのでなく、多様の配剤によって、神の最も聖い目的のために(創世50:20イザヤ10:6,7,12)、これを最も賢く、力強く制限したり(Ⅱ列王19:28;詩 76:10)、あるいは秩序づけ、支配される。しかも彼らの罪深い行動は、被造物からだけ出て、神から出るのではない。最も聖また義でいます神は、決して罪の作者でもその承認者でもなく、またありえない(詩50:21; Ⅰヨハネ2:16)。

 

5.最も賢く、義しく、恵み深い神は、しばしば御自身の子らを、しばらくの間、さまざまな試みや心の腐敗に任せられる。これは前に犯した罪に対する懲らしめのため、あるいは腐敗の隠れた力や心の欺きを、彼らに知らせて(Ⅱ歴代32:25,26,31; Ⅱサムエル24:1; Ⅱコリント12:7-9)、彼らを謙遜にさせるためであり、彼らが支えられるには一層密接に、たえず神により頼むよう導くため、また将来のあらゆる罪の機会に対して警戒させるため、その他の正しく聖い目的の為である。このように、選ばれた者の上に起ることは、何事であれすべて、神の定めによるのであり、神の栄光と彼らの善のためである(ローマ8:28)。

 

6.邪悪で不敬虔な人々については、神は正しい審判者として、以前の罪のゆえに彼らを盲目にし、かたくなにされる(ローマ1:24,26,31; 11:7,8)。神は、彼らの理解を啓発し、心に働いている、神の恵みを差し止めるだけでなく(申命29:4)、時には彼らがすでに持っている賜物さえも取り上げ(マタイ13:12)、彼らの腐敗が罪の機会になるような事柄【物事または状況】に彼らをさらされる【彼らがさらされる時、すぐにでも罪を犯す機会を掴む】(申命 2:30; Ⅱ列王8:12,13)。その上、彼らを自己の肉の欲、世の誘惑、サタンの力に任せ(詩 81:11,12;Ⅱテサロニケ 2:10-12)、それによって、神が他の者の心を柔らかにするために用いる手段のもとでさえも、彼らは自分をかたくなにするようになる(出エジプト 8:15,32; イザヤ6:9,10;Ⅰペテロ2:7,8)。

 

7.神の摂理は、一般的にはあらゆる被造物に及ぶように、最も特別な方法では神の教会【神の民】に配慮し、すべての事を、その益となるように処理する。(Ⅰテモテ 4:10;アモス9:8,9;イザヤ 43:3,4,5)。