「底力付けて夜来る桜かな」という俳句が気になってメモしていました。

 

 調べてみると、明治の俳人正岡子規(1867年・江戸の最後の年~1902年)の句でした。愛媛出身で、夏目漱石とも親交があったそうです。

 明治のころに「底力付けて・・」というと、社会でそれなりに地保(ちほ)を固めて、夜の桜を眺める心境でしょうか。俳句は詳しくありませんが「夜行く」でなく「夜来る」はなんとなく凄い感じです。

 

 私の印象は、もう少し違う意味でした。

 例えば、新聞のコラムで、女性評論家が、資産のある人もない人も、成功している人もそうでない人も、今は、誰もがギスギス生きている時代と書いています。

 法律の世界を見ると、今日の法廷の雰囲気がまずまずだったか、相手の考えていることは何か、次のときまでに何を用意しなければならないかを繰り返し、それでも裁判所の判決を開けて見るまでは結果も分からないモヤモヤが現実です。

                

  多くの仕事も、共通のところが多いのではないかと思います。

 そういう、進展の実感がない日々の中で、今日は「少しだけ底力を付けた」と思えれば、自信をもって一日を終えることができます。

 「桜」は、「もみじ」でも「月見」でもよいと思います。

 

      

 

 「底力を付けた」と簡単には思えないのも尤もですが、例えば、今回は少し捗(はかど)ったとか、苦手だと思っていた人と少し会話ができた、交渉はまとまらなかったが冷静に対応できた、などで良いと思います。

 弁護士が裁判所に行ったとき、裁判官は、バランスを取ろうという感覚が普通ですから手ごたえを感じて帰ることは少ないですし、もっと悪いのは、明らかに相手に肩入れした態度を取られたときです。

 昨年、億単位の請求について、社内でその手続きをしていたのは経理をしていた(こちらの)原告側だという理由で、会社に支払い責任はない・・という判決を受けたことがありました。

 それは7年以上も社内で続けられた契約書のある貸し借りで、意外でした。この案件では判決を貰っても回収のしようがない対策がされていましたので、実際の損害にはならなかったのですが・・。

 

 このようなことがあったとき、結局実害はなかったし、可能な限り手は打ったことを確認して終わるほかありません。

 何が経験になったのかと言うと、長年続けられた金銭移動で、契約書があっても(印鑑は経理担当者が持っていた)、裁判所で争われた場合には(相手の)代表者の意向だったことを証明することが必要・・ということでした。

 独立系、個人商店的な規模でしたが、証券業界では、財務省令で、(代表者が属する)営業部門と管理・経理部門の切り離しがルールだったことも背景でした。

 

 そんな経過でしたが、裁判所の要求するレベルを知って少しは「底力」らしいものも残った気分もありました。

 別の件では、証券投資の損害賠償で、相当の時間を使い、最近高裁に移ったものがあります。「仕組債」を上場化した「VIX インバース」というもので、証券に関する「あっせんセンター」で1500件ものあっせんがされたという特殊な商品でした。どのように特殊だったかを証明するためには、非上場商品から様々なリスクの投資信託まで、証券会社の扱う金融商品リストが分かっていないと対応できないところが難しい事件でした。証券会社の金融商品リストがおぼろげに分かったことが、なんとなく底力の一つになりました。

 

 ギスギスでなく、小さな底力を感じて一日を終わりたいものです。