以前にも書きましたが、8年くらい前に、周囲の若い人たちがブログをしていると聞き、私もと思い立ちました。

 これが「アメブロ」で、少しはメジャーだったことは後から分かりました。

 幸いにも、少しずつですが、途切れることなく読んでいただいている方もいるようですので(”いいね”の数とは縁がありませんが)、これまでの経過について少しまとめてみました。

 

 日常報告的なブログは自分に合わない気がしていました。中学生のころは新聞記者も志望に入っていましたので、そんな感覚が残っていたかも知れません。 それに、弁護士なら日常や、経験、趣味を加味した随筆が得意な人は多い気がしましたし、私はそういうことは自信がありません。

 

 高校では自然豊かな長野市で軟式テニスに明け暮れ、一浪後の、仙台での学生時代の中で、新聞記者の志望は消え、26歳で司法試験を目指し、32歳で何とか合格しました。

 大学の後、長野市に戻って林業関係の業界新聞の編集を1年半しました。

 このときに知ったことは、ある出来事について、100字の記事を10字に要約することも、関連事項に繋げれば1000字の記事にもなるということでした。

 

                    

 

 そういうことが、司法試験で、自分なりの結論が分かっていれば文章にまとめられるという自信になりました。受験勉強の最後のころ、図書館で注釈民法(大部で詳しいもの)を読むと、その中に口述試験(最後の細かい質問)の回答があることも発見しました。試験勉強6年、何とか東京での修習につなげました。

 

 学生時代から刑事事件に関心はありましたが、刑事事件の関係者からは民事事件の依頼はきません。結局、民事中心になりました。

 民事事件の依頼者は会社や事業の経営者が中心ですから、今から思うと若手の弁護士は、大きな事務所に所属しない限り手探りの連続になります。

 今は、弁護士の数が極端に増えましたので、手探りで依頼者との接点を作っていく人がもっと増えていると思います。

 

 研修所の最後のころには、丸ビルの中の事務所から軽く声をかけられたこともありましたが大企業一辺倒には踏み切れませんでした。角さんの右腕のように言われていた(研修所同期の元内閣調査室長さんの)先生とか、更に最高学府の元総長さんの事務所も間接的に紹介されましたが反感はないものの踏み込むには至りませんでした。その後を振り返ると、ごく普通にアンテナを張り、反応していただいた方々に一生懸命に応えた30年間ということに尽きます。

 上場会社の社外監査役も努めました。大きな組織ほど、予め決まったルールが多くあり、その理解に時間を要します。一生懸命考えても「先走っているんじゃない・・」の一言で片づけられたこともありました。

 あのころ支出を抑えていれば経済的には楽だったのではと思うこともありますが、そうすると経験の範囲や人間関係が狭くなるので、結果的にはまずまずだったと思っています。

 

 様々なブログを見て思うことですが、外からのような私の視点も、また、東京だから見えることにも少しは意味がある気がします。

 そういう想いでの、アリの歩みの、アリの視点です。