以前に理工系について書いたブログは、初日に50~60人に読んでいただき、その後はめっきり減りました。

 文化系の人が多く、興味が薄かった気もします。

 

 新聞で、大企業の元会長さんが“大学に入ったら理学や文学はとてもかなわない天才がいることを知って工学部にした”と書いていました。理学部や文学部が天才が目指すところとは知りませんでした。

 

 日本の理工系の歴史についてもう少しと、大型書店に行ってみました。

 

  文系の、ビジネス、経済、法律、文学、受験書などが一フロアーを占めています。その上が理系で、IT、科学、化学、物理、天文、地学などがあります。

 山中伸弥さんなどノーベル賞受賞者の本も積まれています。

                  

 日本の理学の歴史の本は・・と、探しても見当たりません。・・ピント外れかもしれません。
             

 気を取り直して、佐藤教授が、日本の江戸時代について触れているこを改めて振り返りました。

 江戸時代の日本の理学関係の研究者について、蘭学、天文、和算、本草学などを紹介しています。

 

                        


 江戸のころの欧州は、死亡年順に、ケプラー(1632)、ガリレオ(1642)、コペルニクス(1543)、デカルト(1650)は江戸初期、ニュートン(1727)、ダーウィン(1882)は江戸から明治期です。

 このレベルの研究者は日本にいなかったようです。

 

 法律の世界では、ドイツの憲法、フランスの民法を移入し、伝統文化も意識されましたが、欧州の法律の直移入となりました。軍事はドイツに倣いました。

 理学者はどう見るのでしょうか。

 

 佐藤教授は、言います。

― わが国では、外来思想に対比して、自然と人間社会を貫く理を基本にする朱子学があった。朱子学は概念が階梯(かいてい)的、合理的に組み合された理論体系で、これは東洋の科挙の骨組みだった。

 

― 江戸時代に学問を担ったのは武士、医師、一部町人で、文武両道、武術による精神的な修養とともに行財政、築城、土木などがあった。この実務的な気風のため、中国の事大主義的な朱子学にも、朝鮮的な文優先の儒教にも染まらなかった。

 

― 「文武両道」でも、実際は「文」化や「理」の否定、「武」の優位で、「誠」主義の伊藤仁斎、実証主義の荻生徂徠、「日本主義」の本居宣長などがあった。

 

― 幕末、豊後(ぶんご、大分県)の医師の三浦梅園は条理の学としての自然学を志し、「理」を試みた。この時代の中では強靭だった。

 

― 明治初期、欧米の科学力に圧倒されながら、「和魂洋才」が主張された。

 しかし、留学帰りが普通になると「和魂」は下火になり、大正デモクラシーを経て国粋主義、反主知主義の軍事国家になった。

 

 ・・・司馬遼太郎史観では、大正以後は説明が難しいようですが、理系はもう少し遠くからの視点のようです。