東京で、6か月の司法修習をした(今は半分くらい)。東京で修習して東京に残った。

 裁判官室に3人ずつ入って会議用テーブルの上で記録を読んだり、判決の起案をした。
 民事は温厚な部長さんでゆったりと修習できた。伊豆の旅行にも行った。右陪席の女性裁判官(傍聴席から向かって左)から、昼食時間に、テーマを挙げての実施講習をしてもらった。
 判決起案もあったが、「欠席判決」が多かった。2枚くらいの決まりきった書き方で、隣の修習生は書記官から〇×を入れるような用紙をもらってきて片づけていた。
 数回ずつ、家庭裁判所、交通部、労働部にも行った。
 書記官は書類審査の立場のようで、全司法労働組合は左派組合の中心の一つだった。今は女性書記官が増えている。

 刑事の部長も温厚で、被告人にやさしい「仏部(ほとけぶ)」と言われていた。事件数が減少し、外国人犯罪が増えていたときで、「ウチは外国人のお蔭でもってます」と冗談を飛ばしていた。外国人を軽く見てはいけないということ考えた。

                  最高裁

 刑事部に交通部があった。オートバイをはねた乗用車の女性運転手が「その時は30キロくらいで走っていました。」と言った。この時、オートバイの運転手は8メートル位飛び、オートバイを40メートルくらい引きずって縁石で動けなくなったという事件だった。

 私は、車の運転経験があり、部室に戻ってから“30キロ位でこういうことにはならないんじゃないですか?”という意見を言った。強く言ったわけでもなかったが、露骨に不快感を示された。

 この世界では、若い者が感想を口にすることが大問題になるらしいことが分かった。

 刑事部の(向かって右の)左陪席の若い裁判官から「ちょっと原稿書きの余禄が入ったから」と、今はなくなった渋谷のグランドキャバレーで御馳走になった。私は「この方は材木屋の専務で」などと下手な冗談を口にした。

 後で、カクテルバーの「門」にも連れて行ってもらった。後から女性が来たが、私は席も外さずタクシーで送ってもらった。

 今も「門」の前を通ると、不思議な感覚がある。この裁判官は、その後の裁判員裁判の準備で活躍された。

 東京地検でも3か月の修習だった。修習生の部屋でも、指導官が前総理大臣を「あの土建屋は」などと言っていた。検察は、戦闘部隊だった。事件数では覚せい剤と窃盗だったが、政界、経済界や裏社会までが捜査の対象になり、肩で風を切っていたころだった。

 遺体解剖の見学があり、これは臭かった。

 検察は重いものを抱えているけれども、微妙な強い圧力があるらしいという印象だった。
 早く現場に出たい、相当苦労しそうだなと思っていたときだった。