普通に言われているのは、経営などで、「虫の目で下から複眼的に考え、鳥の目で俯瞰(ふかん)的に見て、魚の目で流れを読む」という、箴言(しんげん、模範となる言葉)です。
少し違うのですが、ここでは、細かな現実から見る帰納法の「虫の目」、高い視点から見る演繹(えんえき)法の「鳥の目」、それに、人の目線くらい高さで考える「トンボの目」です。
20年以上前のことですが、先輩弁護士と話したときに、「弁護士のものの見方は(上からの)演繹法ですよね」と言われて驚いた経験があります。そのとき、私は、弁護士は、いろいろな人や会社の相談を受けて、下から事象を積み上げて考えるという帰納法が普通と考えていました。
逆に、社会を規制する法律から出発して、具体的な事例がどこに当てはまるかを考える方法もあるのかも知れません。演繹法です。
今から考えると、この先輩は、国会の法律部門に勤めてから弁護士になったので、そういう演繹的な考え方だったのかと思います。
多くの裁判官も、法律や、最高裁の判例から個別の問題にあたっていくという、演繹的な方法かもしれません。今では、いろいろな出来事に当てはまる、最高裁判例の蓄積があり、それを基準にする方法が普通になっているかもしれません。
それでも、私は、相談を受け、法律問題になるのかどうかを含めて、帰納法的な分析方法をつづけてきました。
20数年間つづければ、この方法に慣れて、心理的な負担が少しずつ軽くなるかと思いきや、逆に、人の気持ちが理解できるようになって、少しずつ色合いの違う、重苦しい気分が蓄積しているのが実際のところです。
村上春樹が、「私は小説家の中では人の話を聞くことが好きだ。(しかし)人々の話の多くは使い道のないまま僕の中に(苦しみになって)積もる。」と書いていることと似ているかもしれません(「メリーゴーランドのデットヒート」。これは、今回のブログを一旦完成させてから目にしました)。
そこで思いついたのが、「虫の目」よりも少し上からの、個別的なことに感情移入しない「トンボの目」です。
これは蝶の目でも、コウモリの目でもなんでも良いのですが。
私には、なかなかの発見でした。
そういう意識をするだけで重苦しい気持ちから少し離れて、今後の対応や展開の方法を考える余裕につながります。
大所高所から演繹法的に考える人に出会ったときに、「私は、このごろ、トンボの目で見ることにしています」と言えば、答えの一つになりそうです。
このアプローチがどこまで通じるかを考えると、例えば、重症の患者を多く抱えた病院や、老人ホームの人たちが、最後に看(み)取らなければならないようなときには、感情移入するしかなく、そうすることが普通に思えます。
東北、熊本、北海道などの震災を間近かにしたときにも、離れて見ることはできません。
「トンボの目」がいつも通じるということにもならない、重い問題はありそうです。
それでも、机に向かっての仕事では、「トンボの目」が有効なときがあるのではないかと考えることにします。