この半年ほど思うことがあります(平成30年)。

 保守、革新、それぞれの中に戦前系と戦後系の断裂があるのではないかということです。

 保守の中の戦前系。目立つのは神社系、憲法改正を進めています。若い人では、成長の家がここに連なり、ここも戦前からの系譜です。

 神社信仰は我が国の自然神信仰と天皇家信仰が合体したものと思います。神社は、「神宮」「宮」「大神宮」「大社」「神社」「八代」があり、最初の三つは天皇家と密接ということです。

 宮司さんクラスなどと、まれに話す機会があったときに聞いてみると、戦前の秩序と直線的につながっているようです。

 批判のある残虐行為や国民の不在のようなことは、取り上げることは無用と考えているようです。

 憲法改正を唱える人と話すと、押しつけ憲法を取り除いて明治憲法の道に戻すことがテーマで、「靖国合祀」への批判などは取り上げる必要もないようです。

 しかし、最近の憲法改正論議はこのような戦前系保守の考えから離れつつあるようです。「戦前回帰」とは距離をおく流れが優勢のようです。

 戦後系の保守について、有力な何かがあるのでしょう。しかし、最近の財務省の右往左往ぶり、文科省の収賄、若手議員の体たらく振り、を見るにつけ、戦後系保守の核とか骨とかは何なのかという疑問がわきます。

 民主主義が「存在する中の最悪の政治システム」(チャーチル)であるとすれば、体たらくや骨のない姿も本来の姿かもしれません。

 

                   

 

 次に、革新について、どうして戦前系の革新をイメージするかというと、その中心のところで北の大国への親近性を感じるからです。

 北の大国が既に消えていることは分かっているのでしょうが、それでも志向するのは、指令する中央があり、そこから連携が行きわたることへの憧れがあるのででしょう。

 そのような感覚が、実際の阪神淡路大震災や東北大震災に際して、さほど機能しないことが明らかになりましした。一方の専制の国、他方の民主主義の衆愚です。

 戦後系の革新というものがあるのか、について。

 私は、「浮動票」のかなりの部分が戦後系の革新と思います。

 公平に比重を置いているのが革新系でしょう。この人たちは、政治的な発言が現在社会にフィットしているかどうかチェックします。

 残念ながら、これまでの革新政権は、北の大国からも、西の二つの国からも領土問題で攻め立てられました。

 こういうことにも対応ができるまでには、長い年月を要するのでしょう。

 

 もとに戻ると、保守、革新のそれぞれの中に、新旧の断裂を含んでいることも、何かの醍醐味のように思います。