「司々(つかさつかさ)」について、バブルの最後の1989年までの竹下首相が言っていたのが記憶に残っています。

 役所のそれぞれの部署に任せることで最高のパフォーマンス(表現、能力)を発揮するという意味で、それまで角さん(田中角栄)が隅々まで目を配っていた息苦しさの中では解放感がありました。

 最近のニュースで、角さんに5億円をこっそり献金して高速道などの情報を先取りし飛躍につながった佐川広康(佐川急便)は、竹下政権の発足のために15億、角さんの不満を抑えるためにさらに12億を献金したそうです(週刊新潮)。

 こういうことが活字になっても誰も被害を受けなくなるまでに30年を要しました。

 1980年に東京地検で修習していた時の地検の修習部長(旧国鉄の総務部長も歴任)は修習生の前で角さんを「あの土建屋は」などと罵(ののし)っていました。大金の動きをうすうす知っていて、義憤があったかもしれません。

 角さんは1976年に逮捕され、検事総長がアメリカの関係者に「不起訴宣明」をして嘱託尋問をするなど、強引な捜査が行われました。一方で、当時のアメリカ側にも日本の大混乱は避けたい考えはあったそうです。

 竹下首相の後は、海部総理、宇野総理と軽量の首相が続き、2001年から小泉改革となりました。

 ロッキード事件の最高裁判決(秘書が被告)が出た1995年は、東京で青島知事、大阪で横山(ノック)知事が誕生しました。保守党でないという以外の評価は不明です。

 

                   

 

 誰にも損害のない政策というものがないとすると、物事の変化にはトップも関係部局も一体になることによってしか出来ないようです。

 今、そういうことを考えるのは、なぜ小池知事があれほどの支持を集めるのかということです。

 東京では司々風(ふう)が行き渡りました。石原知事は、廃棄ガス対策やオリンピックの功績はありますが管理は手薄で、司々とは非効率でずるい人も分け前に預かるシステムになり易いことが露呈しました。長男の石原大臣の、いざとなると行動力が伴わない様子も司々主義の姿に見えます。

 地方の政治家からスタートして、役所や民間で少しずつ発言力を付けるという普通のコースでは、議員になるには十分でも変化する世界は視界に入らないようです。

 そういう中では、東京のように田中邸の下足番で顔を広げた人がいつの間にか都議会のドンと言われるようになります。本人はちょっとした王侯気分で悪意はなくても、親族に利権が集まったりします。

 東京は、結局、手堅い風の古い政治が繁栄しました。それに対抗した人たちも、根付くことなく終わりました。

 石原知事の政敵の美濃部知事がいます(1967年から3期)。

 戦前に、若手の軍人などが国の「転回」と言っていたものは、ソ連の社会主義、ドイツの国家社会主義への同調でした。そういう武張った気分は消えることなく、美濃部氏への支持も半分はそういうものでした。

 司任せだったり、伝統的で手堅そうな政治風土の先にこれからどういうものを作ることができるか、できないか。 馬齢を重ねる中でもわずかな楽しみがあります。

 

(29年10月の衆院選を見ると、小池知事は、学生時代をエジプトで過ごした、「部族長」型の政治家だったことが分かった、という結果だったようです。)