一章で、『神について』感想を述べました。

『モーセの十戒』があるにも関わらず、名前をよく使うところに、特徴があると思います。
それと書き忘れましたが、最初に神の名前は言わずに、『エホバ』を後だし、興味がでてきたところで、
『エホバと呼ぶことの正当性』を主張された感じでした。



今回の二章では、聖書はどんな書物か?ということに関して書かれています。
預言の書物であるとか、神の言葉であるとか…。

預言の成就に」関してイエス様についても書かれています。(付録で…)

それに関しては異論はありません。


ただ、言っておきますが、
エホバの証人の『聖典は聖書ではなくものみの塔誌』です!ヽ((◎д◎ ))ゝ


聖書を学んでいるのだから、聖書が聖典かと思いきや『聖書よりもものみの塔誌です!』と、研究司会者に言われた時は驚きました。

(エホバの証人は集会にて教理を学びます。聖書はその際に用いられますが、主張する根拠はこの聖句ですといった形で、聖書が用いられます。エホバの証人は独自の神学的なものを持っているので、『新世界訳聖書』以外のものに普通に触れるなら、エホバの証人の教理は理解しがたいと思います。)


参考:http://www.watchtower.org/j/bh/article_02.htm
第一章の冒頭に三つの文が太字で書かれていますが、神の気遣いと近づくことに異論はありませんが、気になるのは神のお名前を「エホバ」と呼ぶことです。
お名前自体は「エホバ」とするなら、それでいいでしょうけど、『呼ぶこと』はどうなんでしょうか?

(どこの教派でも、『神の名前』をいろんな言葉で呼びます。
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7)



『モーセの十戒』にはこう書かれています。

新共同訳出エジプト記 20:7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

(単純に神の名をみだりに言ってはいけないとかかれているではありませんか?)



この章にモーセの十戒は登場しません。神の名をJW特有の教理で、そうしているとは思いませんか?

神に関する真理は奥深いものと思います。この章だけで、そうだと言い切れない気がします。
今後も学んでいきたいです。


余談ですが…、

創造者(神)の特質については、聖書にいくつか述べられていますが、個人的に好きなのが『公平さ』です。


今回の参考資料は:http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
宗教をする場合、マインドコントロールのことが気がかりになります。
こと、JWの場合はどうかと言えば、
僕の感想では、マインドコントロールの要素が…、教理とか、家庭聖書研究を含めた集会に存在するように思いました。

そして、組織や上位の役回り(とでも言いますか)に絶対的に従うことが慣用です。
神の代弁者には思えませんでしたが…。

現在、エホバの証人の『教えの本』の話題を取り上げていますが、
マインドコントロールは欠かせない要素のような感想を持ちました。

実際に教理によることから、社会から隔絶されたような環境に変化していくようでした。
そのうち、救いの道はエホバの証人以外にないと錯覚?をおこすような感覚です。

『教えの本』の話題には欠かせない要素になってますから、
この要素をあわせて考えてもらいたいです。



次回から、また『教えの本』に戻っていきます。