こんばんは、Kです。

 

最近、ミカンを1日に3個くらい食べています。

 

糖尿病を患っている祖父は、1日1個しか食べちゃダメだと医者に言われているそうです。

 

私からすると気の毒に感じるのですが、1日1個しか食べられないとなると、

 

味わって食べるようになるから、かえって効用は大きくなるのかも。

 

 

 

さて、昨日、三重県の温泉施設で男が女風呂に侵入し、逮捕されたというニュースがありました。

 

逮捕された人は、「心は女性なのに、なぜ女子風呂に入ってはいけないのか理解できない」

 

と供述しているそうですね。

 

 

最近、LGBT理解増進法が施行されるなど、日本でも、性的少数者に対して寛容な社会形成に向けた

 

動きがあります。

 

一方で、私はヤフコメとかXを結構見るのですが、そこでのコメントを見てみると、

 

変化に反発する意見も、多くみられます。

 

まあ、当然っちゃ当然なんですけど。

 

 

ちなみに私も、体の性と、性的指向はわりとはっきりしてるのですが、

 

性自認や、表現したい性は、結構あいまいです。 

 

ステレオタイプの男性からはかけ離れているし、

 

自分のアイデンティティには今までかなり悩んできました。

 

 

そんな私ですが、今回の三重の事件のような、性的少数者の公衆浴場・公衆トイレでの問題について、

 

「こんな問題、本当に起こるのか?」と疑問に持っていました。

 

というのも、自分の場合、明らかに男性だという性自認がないものの、

 

今までほとんど違和感なく、公衆浴場や公衆トイレを利用してきたものですから。

 

また、そういった施設において肉体的特徴をもって、利用スぺ―スを区別する、という慣習について、

 

性的少数者の多くはその必要性、合理性を理解しているではないか、とも思っていましたし、今もそう思っています。


 

素性のしれない人と遭遇したとき、人は相手を見た目で判断せざるを得ません。

 

なかでも公衆浴場や公衆トイレといったセンシティブな場では、

 

(特に女性は)違う性の体つきの人が同じスペースに入ってくると、

 

どうしても警戒して、快適に利用できないですよね。

 

だから、外見を基準として区別することは、合理的だと思うし、

 

それによって性自認とは違う性別のスペースを利用することを強いられる人がいても、

 

それは致し方ないことだと思うのです。

 

 

それに、この問題に関して私が思うのは、

 

「そもそも、公衆浴場やトイレに、何しに来てるの?」ということです。

 

公衆浴場には、お風呂に入りに行きます。トイレには用を足しに行きます。

 

その目的さえ果たせれば、良いのではないか、と思うわけです。

 

男女で区別された利用スペースの、どちらの方を使うかによって、

 

その人の性自認や性的指向、表現する性まで決まるわけではありません。

 

男風呂に入ることで、この人は自分のことを男性と思っていて、女性が好きで...

 

などといったことまで、押し付けられてはいないということです。

 

 

三重の事件の犯人が、本当に、自分の身体と性自認の矛盾を動機として、

 

切実な思いから今回の犯行に及んだのであれば、私は犯人に上記のことを訴えかけたいです。

 

権利を主張するためだとしても、社会の秩序を侵してしまえば、

 

性的少数者に対する誤解を招き、世論の分断や対立を無用に深めるだけです。

 

性的少数者に関する法律や制度について、活発に議論がされ、過渡期と言えるこのご時世に、

 

このような事件が起こってしまったことが、残念でなりません。