西洋哲学 - 現代 | のんちゃん物語

のんちゃん物語

民族の文化・文明を伝える。

 西洋哲学の現代では、これまでの価値観を否定し多彩な思想へ展開します。帝国主義以後の世界動乱の時代から、近代哲学の理知主義への肯定と批判。そして、哲学そのものへの批判です。


ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス
 [画家]
  レンブラント・ファン・レイン
 [Painter]
  Rembrandt
 [タイトル]
  ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス
 [Title]
  Aristotle with a Bust of Homer
 [製作年]
  1653



■ マルクス
 ユダヤ系ドイツ人。経済学者、哲学者、革命家。法学や哲学を学んだあと、新聞記者になり現実の社会に関心を持ち、社会運動に参加します。産業革命後の資本主義経済を分析し、エンゲルスとともに「共産主義」を打ち立て、19世紀後半から20世紀にかけての階級闘争に圧倒的な影響を与えました。そのマルクス主義は、ロシア、中国の社会主義革命の精神的理論的支柱となりました。著書に『資本論』、『経済学批判』、『共産党宣言』、『経済学・哲学草稿』があります。


 資本主義という生産様式への流れを根本的に見直し、現実的な社会変革を唱える思想家が、カール・マルクスです。
 そのラディカル(急進的)な思想をマルクスに芽生えさせたきっかけは、ごく素朴な疑問でした。
 領主の圧政に苦しむ中世の農民とて、自らのつくった作物のいくばくかは口に入れることができました。ところが資本主義社会においては、直接の生産者である労働者が、自らのつくったモノを手に入れることができません。クルマも高価な服や家具も、手に入れることが出来るのは一部の金持ちだけです。それらを売ることで生まれる利益も、ほとんど資本家のものになってしまいます――。
 マルクスは、資本主義が内包(ないほう)する、さらなる矛盾の構造に気づきます。労働者が仕事に熟練して生産能率を上げ、日々の生活を犠牲にして労働時間を増やせば、「余剰価値」が生まれ、資本家は利潤を蓄えます。その一方、相対的に労働の価値は減って、労働者の生活水準はどんどん下がっていきます。労働者によって製品が生産されればされるほど、資本家は潤い、労働者は貧しくなっていきます。
 こうした矛盾を生み出す社会形態について、マルクスは根本的な考察を行いました。社会の土台は、生活に必要な物質を生産する形態(農業、工業など)、交通形態、所有形態などの「下部構造」によって成り立っています。そして、法律と政治の制度、宗教、思想などの「上部構造」は、「下部構造」の在り方によって変わってきます――。
 「下部構造」によって「思想」までもが変わってしまいます。古代から近代まで、哲学者は様々な形で「周囲の状況に左右されない内的な個人の在り方」を追及してきたが、マルクスの考えでは、どんな社会的状況に置かれるかによって、個人の内面的な在り方も変わってしまうのです。


 人は、自分の生き方や考え方が、社会における位置によって決められてしまうことをあまり認めようとはしません。あるいは、気づきもしません。マルクスは、そうして「虚偽意識(イデオロギー)」が生まれてくるのだといいます。
 資本主義社会とは、手を使って働く者を不幸に追い込んでいく矛盾をもっとも大きく映し出した社会構造でした。そうした視点に立って、彼は社会構造がもたらす生活条件の矛盾が歴史を動かしてきたとする「唯物史観(ゆいぶつしかん)」を打ち立て、その歴史観を次の一言に集約しました。


 「古代の歴史は、階級闘争の歴史である」


 古代ギリシャ、ローマの奴隷制において、生産労働に携わる者は、すべて奴隷でした。中世の封建制、近世の王政においても、労働者と支配者は激しい階級闘争を繰り返してきました。その唯物史観によれば、資本主義社会は、労働階級(プロレタリア)が社会の主導権を握るための通過点なのです。


■ ニーチェ
 ドイツの哲学者。牧師の子。ボン大学とライプチヒ大学に学び、作曲家のワーグナーと「ペシミズム」の代表者ショーペンハウアーに傾倒(けいとう)しました。古典文献学のF・リッチェルにその素養を認められ、24歳でスイスのバーゼル大学教授となります。だが、まっとうな人生はそこまでで、1879年に大学を辞して以降は、漂泊(ひょうはく)の人生を歩み始めます。1881年、スイスのシルヴァプラナ湖畔で、突如、「お前が現に生き、また生きてきた人生をいま一度、いや、さらに無限回、お前は生きねばならない」という「永劫回帰(えいごうかいき)」の啓示(けいじ)を受けます。
 代表作に『ツァラトゥストラはかく語りき』、『曙光(しょこう)』、『善悪の彼岸』などがあります。


 ニーチェは、自分の思想を「神は死んだ」という言葉に集約しました。「神の死」を、ニーチェは次のような寓話(ぐうわ)で表現しています。
 白昼の市場に、提灯を下げた男が現れてこう叫ぶ。「俺は神を探している!」。市場にあふれる人々が冷ややかな視線を浴びせるのも構わず、男は、その一人一人の顔を見渡しながら叫びかける。「俺たちが神を殺したのだ! この俺とお前たちとがだ! 俺たちは、皆、神の殺害者なのだ!」――。
 この奇人が語る「神」には、二通りの意味があります。
 一つは、キリスト教の生み出した神です。ニーチェは、自分自身を「アンチキリスト(異端者、悪魔)」に擬しています。
 もう一つは、それまでの哲学者たちがつくり上げてきた理想、観念、価値です。つまり、ニーチェは、この寓話に託して、信仰の終焉(しゅうえん)とともに、それまで西洋文明の骨格となってきた価値・秩序・権威の終焉を宣言したのです。
 このような既成の価値の否定を「ニヒリズム」といいます。これは、ラテン語で「無・虚無」を意味します。

 ニーチェは、にわかに人々の前に現れた「ニヒリズム」を「戸口に立つ不気味な訪問者」になぞらえます。信仰も思想も失った人々は、この訪問者を迎え入れて、ともに虚無のなかに生きるしかないのだろうか? そうではなく、ニーチェは、「ルサンチマン」という概念を提出し、「ルサンチマンからの脱却」を力説します。


 キリスト教的道徳観は、「汝(なんじ)の敵を愛し、汝を責める者のために祈りなさい」というイエスの言葉があります。弱者は、力と権力では及ばない強者に虐げられることによって、発散することができずわだかまる恨みと怒り(ルサンチマン)を心中に根付かせます。その弱者たちに、イエスは、強者を「悪者」と見なし、強者を「正義を知らぬ者」と憐れむことによって精神的優位に立つ方法を教えました。
 しかし、その道徳観がルサンチマンの裏返しである以上、キリスト教にすがる人々は、根源的な恨みと怒りから逃れることはできません。そこで、ニーチェは、誤魔化しの武器を捨て、裸になれといいました。
 ニーチェによれば、自分を弱者と見なすことをやめれば、支えなどは必要なくなります。また、人間は、新しい思想も、ヘーゲルのいうような「自己の向上」も求める必要はありません。自己を改善しようとしても、人間は生きているかぎり同じ失敗を繰り返します。ならば、過去の失敗をも肯定して、あるがままの自分を受け入れるしかありません。自然は、永々と同じことを繰り返し、あるがままに存在しています。そのような「永劫回帰」に溶けるがいい、というのです。
 そうして、信仰も理想もなく、後悔も向上心もなく、「幼子」のように生きていくことのできる新しい人間こそが、ニーチェ哲学が最終的にめざす「超人」ということになります。


■ フロイト
 オーストリア・ハンガリー帝国の小都市フライベルクのユダヤ人家庭に生まれます。ウィーン大学卒業後、比較解剖組織学の研究に従事していたが、神経医学の権威シャルコーに師事したことでヒステリーに関心をもちました。それを契機に、精神科の臨床医という立場を通して数多くの臨床例を研究し、「精神分析学」を創始しました。主著に『ヒステリー研究』、『夢判断』、『自我とエス』などがあります。


 フロイトは、二つの点で哲学の世界に強い関わりをもっていました。
 一つは、フロイトの独自の研究が、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーの影響を受けていたということです。フロイトが提唱した「リビドー(情動)」は、ショーペンハウアー哲学の根幹をなした「非合理で盲目的な衝動」を科学的に説明しようとしたものです。
 もう一つは、フロイトによる「無意識」の発見が、それ以前のあらゆる哲学に対する「コペルニクス的転回」になったことです。かつて、カントは「認識が、事物と現象をつくり出す」という自らの理論を同じ言葉で表現しました。人間の性格や行動の大半が「無意識」に支配されているとするフロイトの理論は、思考(認識)の価値そのものを大幅に格下げしてしまったという意味で、哲学界にとっては、はるかに大きな発想の転換でした。

 フロイトの研究によれば、「無意識」は三つの層から成っています。もっとも深い層が「イド(またはエス)」、中間の層が「エゴ(自我)」、いちばん上の層が「スーパー・エゴ(超自我)」です。
 この三層は、地層が生まれるメカニズムと同様に、人間の成長過程にしたがって「イド」「エゴ」「スーパー・エゴ」の順に積み重なっていきます。
 「イド」は、原始的な快楽や欲求を満たそうとするエネルギー。お乳を吸いたいときに吸い、眠りたいときに眠り、排泄(はいせつ)したいときに排泄し、その欲望を少しでも妨げられると泣き喚く幼児は、「イド」にしたがって行動しています。
 「スーパー・エゴ」は、最終段階で形成される無意識層で、社会の成員としてのモラル、行動規範、仕事の義務や目的に自分をしたがわせようとする欲求です。
 「エゴ」は、「イド」と「スーパー・エゴ」の間に入って、原始的欲求と社会的欲求との調停を行います。
 すべての行動は、この無意識の三層によって、" 自動的 " に行われています。


 また、フロイトは、「抑圧――コンプレックス」という二つの概念の組み合わせによって、さらなる無意識の支配を説明しました。この論理を代表するのが「エディプス・コンプレックス」です。
 男児は、幼児期に母親を奪い合うライバルとしての父親を無意識に感じるようになる。それは、自分よりも力の強い父親に対する恐怖と敵意を生み出すもとになる。だが、母親を欲望の対象とすることは、文明人として許されざることだ。その社会的欲求にしたがって、成長とともに母親への欲望は無意識内に「抑圧」される。
 その状態が、本人の意識できないところで様々に行動を左右する複合的な心理をつくり出します。知らず知らずに母親に似た恋人を選んでしまったりするのも、フロイトによれば、無意識の内に抑圧された「母親への欲望」。「コンプレックス(観念複合体)」とは、そうした無意識の複合的な操作を意味しています。


■ ユング
 スイスの精神医学者。ボーデン湖畔のケスビルに牧師の子として生まれます。バーゼル大学医学部を卒業後、フロイトの創設した国際精神分析学会に参加。フロイトの後継者と目されるが、1913年にフロイトと決別、独自の分析心理学を創始しました。主著に『変容の象徴』、『タイプ論』、『心理学と錬金術』、『結合の神秘』があります。


 ユングの存在は、フロイトよりもはるかに思索的で哲学的です。その特異な存在は、「ヘルメス思想」への傾倒に象徴されます。
 「ヘルメス思想」とは、ヘレニズムの神格ヘルメス・トリスメギストスを中心に置いた、錬金術、占星術、ストア派哲学、グノーシス派哲学、プラトン主義哲学などを含む秘教的思想の体系です。
 ことに、「ヘルメス思想」の中に語られるミクロコスモス(人体)とマクロコスモス(宇宙)の照応には、ユング心理学の中心理論との強い関連が見られます。


 ユングは、人間の無意識は、人類が共通にもっている「普遍的無意識」によって形成されるものと考えました。そこが、人間の無意識が個々人の幼児体験、成長体験によってつくられるとしたフロイト心理学と根本的に異なる点です。
 「普遍的無意識」とは、例えば、私たちは、人種に関わらず、海を前にすると心が騒ぐ。草原に出れば解放された気分となり、山に登れば壮快な征服感をおぼえる。他国の翻訳小説を読んで泣き、あるいは外国映画を観て興奮する。そうした普遍的心理を、ユングは、宇宙と人類の関係でとらえました。共通に宇宙を体験することによって、人類は、人間一人一人の「自我(じが)」を超えた「個我(こが)」(人類という種族の我)を形成しているというわけです。
 ユングは、その「個我」に共通する無意識を「集合的無意識」と名付けました。ユングによれば、「集合的無意識」の存在を示す証拠は、この世に多々あります。
 その一つが、「象徴夢(しょうちょうむ)」です。ユングは、多くの人から集めた夢の中に、いくつかの象徴的な定型があることを発見しました。それは、自分の尻尾を咬んで環(わ)になった蛇(ウロボロス)であったり、階段を上っていく数人の女神であったり、草をはむ羊の群だったりします。それらは、不思議なことに、ヘルメス思想が伝える数々の象徴図に符号(ふごう)してました。
 そこでユングは、ヘルメスに関連する象徴図は、すべて瞑想的無意識のなかで得られたイメージを再現したものに違いないと考えました。だからこそ、紀元前6世紀に表された図像が、現代人の見る夢のイメージに一致してくるのではないか。そして、この一致は、「集合的無意識」の存在を示す証拠に他ならない――。
 古代から現代に受け継がれる「集合的無意識」のイメージを、ユングは「アーキタイプ(元型)」と名付けました。


 ユングによれば、世界各国の遺跡にみられる聖母像も、象徴夢と同様、「アーキタイプ」が再現された実例にほかなりません。メソポタミアの地母神、サモトラケのニケ、日本の縄文時代の土偶は、すべて母なる大地を象徴する「グレート・マザー」です。つまり、民族を超えた「集合的無意識」の産物ということになるわけです。
 また、世界各国の民話や神話も、「集合的無意識」の存在を示す大きな証拠となります。洪水、山火事、龍、魔女、鬼、千人、女神――それらのイメージが世界の童話に反復して登場します。
 『グリム童話』の蒐集(しゅうしゅう)で知られるドイツの文献学者グリムは、民話が無意識に近い心理状態から生まれるイメージによってつくられると指摘しています。民話は、語り部によって伝えられるものだが、語り部は、作家的な構築や推敲(すいこう)なしに思いつくままに語ることを常とします。それは、潜在的イメージ(無意識のイメージ)を引き出す心理学上の実験、「自動連想」を彷彿させます。語り部によって伝えられる神話についても、同様のことがいえます。つまり、民話や神話も、夢に近い無意識な産物という意味で、「アーキタイプ」と考えることができるわけです。


 ユングについて、フロイトは、このように評したといいます。
 ”ユングは、科学者を超えた預言者になってしまった。”
 これは、最大級の賛辞をつかった最大級の皮肉です。


■ ベルグソン
 20世紀フランスの代表的哲学者。コレージュ・ド・フランス教授、アカデミー・フランセーズ会員、ノーベル文学賞受賞という輝かしい実績の持ち主です。しかし、第二次大戦下のパリで、ナチスの提供する特権を拒み、貧しさのうちに没しました。フランス伝統の唯心論的実在論から、神秘主義、進化論までを覆い尽くす実証主義的形而上学を説きました。著書に『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二元泉』などがあります。

 ベルグソンの哲学は、「実証主義的形而上学」と呼ばれます。
 カントは、「人間には物の本質は知り得ない」とし、物の本質を知ろうとするのは、直観の仕業であり、物の本質には入らず現象面を分析するのが、科学の手法であるといいます。ベルグソンの哲学は、そうした直観と科学とのハイブリッド(混合)であります。


 そのベルグソン哲学の中心を成すのが「イマージュ」の理論です。
 「イマージュ」は、「イメージ」のフランス語です。ここでは、「心象」で使われています。

 例えば、目の前に一個のコップがあるとする。目を閉じると、そのコップは見えなくなる。コップ自体が消えてなくなったわけではないのに、目を閉じるという行為によって、いったんコップは消えてしまう。このように、「物は、人間の近くによって存在したりしなかったりする。
 また、電子顕微鏡によってコップを形成する分子・原子・素粒子の有り方を確認したとしよう。それがコップの確かな存在なのだろうか? それとて、人間によって知覚されたものであることに変わりはない。電子顕微鏡によって見るという、手段の違いだけだ。まして、分子や原子を物の実体と限定してしまえば、この世界に様々な色や形をしたものがあることの意味がなくなってしまう。


 ベルグソンの理論では、われわれ人間にとっての対象(事物)とは、人間の受け止め方によって絶えず変化する「心象」にほかなりません。この考えは、認識を限定的なものであると見なす点で、理性の限界を示しており、限定的な認識を重視する点では、唯心論の流れを強くくんでいます。


 ベルグソンは、「イマージュ」の理論によって、「一種の錯視(さくし)もまた認識である」という考えを提唱しました。


■ フッサール
 現象学哲学の確立者。オーストリア出身のドイツ系ユダヤ人。ドイツの心理学者ブレンターノに学び、「記述的心理学」の理論を継承して現象学へと発展させました。ゲッティンゲン大学教授、フライブルク大学教授を経て、退官後も研究を続けました。主著は、『論理研究』、『純粋現象学と現象学的哲学のための諸考想』。


 フッサールが確立した「現象学」は、前提において「イマージュ理論」と同じ位置に立っています。しかし、現象学では、「人間は日常的に錯視を行っている」という前提として、正反対の理論が展開されます。


 光は透明である――。


 これは、光の分析を知らない時代においては「自明(じめい)」のことでしたが、空にかかる虹が示すように、実は、光は七つの色から成っています。虹は、日光が大気中に浮遊する水滴に当たることによって生ずる光の分散です。その現象について、無知であれば、虹が光の正体であるとは思いもよらないでしょう。
 イギリスの作家チェスタートンは、ある推理短編のなかで、「魚屋に置かれた木彫りの魚がニセモノであるとは、誰も疑わない」と書いています。同様に、野鴨の生態を観察する研究者は、野鴨の群れる池に浮かぶデコイ(鴨猟のための人工的なオトリ)がニセモノであるとは気づきません。
 フッサールは、まず、それらの思い込みを排除することを提唱し、それを「エポケー(判断停止)」と名付けました。そして、いったん立ち止まり、無自覚な思い込みから自由になったうえで、新たに対象へアプローチすることを勧めています。


 知り得る範囲内の情報をもとに、そこに何かがあると判断し、その判断の成否を確かめていくプロセスが能動的な認識活動なのであり、そこで成立する意識と対象との関係こそが重要なのであると――、フッサールはいいます。
 フッサールによれば、人間には単に事実を受容するだけでなく、自ら対象に向かって働きかける「志向性(しこうせい)」が備わっています。、その「志向性」によって現象を探求していくことが、フッサールのいう「現象学的還元」です。


 「現象学」は、真理への到達を目指すものではありません。また、不完全な認識によって得られる知識を否定するものでもありません。無自覚な思い込みを排除し、「自明のこと」を疑ったうえで、新たに対処に迫っていくことを提唱しています。


■ ハイデッガー
 「20世紀最大」と謳われるドイツの哲学者。南西ドイツの小村メスキルヒに生まれます。1915年、フライブルク大学の講師となってフッサールに師事、現象学の影響を受けます。『存在と時間』の公刊によって一躍脚光を浴び、1933年には、フライブルク大学教授を経て同大学総長になります。しかし、人間の宿命を唱える理論はナチズムの民族主義と結びつき、自ら積極的にナチスに関与していったため、戦後は、あらゆる教授活動を禁止されました。『存在の時間』以外の著書に、『カントの形而上学の問題』、『形而上学入門』、『ニーチェ』があります。


 ハイデッガーは、「存在の意味」の鍵を開こうとした最初の哲学者です。
 そのテーマのアプローチにおいて、ハイデッガーは、まず「現存在」という概念を提出しました。私たちは、日々、自分の健康や経済状況を気にかけながら暮らしており、それなりに自分が現実に存在していることを了解しています。それが、「現存在」の状態です。
 その「現存在」は、「世界」とは切っても切れない関係にあります。ここでいう「世界」は、人間のつくり出した文明世界を指しています。文明世界において、私たちは、交通手段、通信手段、生活用具、料理用具、大工道具などの道具を用いて生きています。
 ハイデッガーによれば、それらの道具は、すべて「目的――手段」のネットワークで結ばれた「道具関連」を形づくっています。そして、その目的とは、「世界」における「現存在」の維持にほかなりません。言い換えれば、私たちの「現存在」は、「道具関連」なしにありえないのです。
 私たちが、「現存在」のレベルに留まっているかぎりは、「世界」の外部で生きることはできません。ハイデッガーは、それを「世界内存在」と呼びます。
 そして、「道具関連」によって維持される私たちの「現存在」は、いくらでも代用がききます。「王子と乞食」が服を取り替えることによって入れ替わったように、生活の道具を取り替えさえすれば、あらゆる「現存在」は、取り換えが可能です。


 では、「ほかの何者とも取り替えようのない存在」、「かけがえのない存在」としての自分は、どのようにして探したらいいのでしょうか?
 それは、「なぜ、自分はあるのか」という、「存在の意味」を求める問いにほかなりません。
 ハイデッガーによれば、その答えは、「自分の死を見つめる」ことによってしか得られません。死は、誰にも平等にやってくるけれど、自分の死は、他の人間の死によって代用することができません。
 よって、いくらでも取り替えのきく「現存在」でしかなかった自分は、死によって初めて、「かけがえのない存在」になるのです。
 ハイデッガーは、「何のために自分はあるのか」という問いへの答えを、人それぞれに委ねています。ハイデッガー哲学の重要なポイントは、「現存在」から脱して、その問いを始めること自体にあります。
 ハイデッガーは、自分の死を見つめることなく、自分が消えてなくなってしまうことに不安を抱くこともなく生きている人を「ダス・マン(ただの人)」と呼んでいます。「ダス・マン」は、「いくらでも交換可能な人間」という意味です。


■ サルトル
 フランスの作家、思想家。パリに生まれます。高等師範学校で哲学を学び、ポール・ニザン、レヴィ=ストロースに傾倒。卒業後、ベルリンに留学してフッサール、ハイデッガーの強い影響を受けます。1938年、小説『嘔吐』を発表して一躍有名。だが、第二次大戦に動員され、ドイツ軍の収容所に入れられます。その収容所を脱走し、占領下のパリに戻って戯曲(ぎきょく)を執筆するという人生を送りました。また、女性評論家ボーヴォワールの生涯の伴侶でもありました。主著には、『存在と無』、『自由への道』などがあります。


 中年の年金生活者ロカンタンが、あるとき見慣れたマロニエの木の傍らに立ち止まり、その太い根をじっと見つめる。それが、なんとも醜悪(しゅうあく)な異物に思え、ロカンタンは、ふいに吐き気をもよおす――。
 サルトルの出世作『嘔吐』のモチーフです。ここでのマロニエの木は、「公園にある、見慣れた一本の木」という意味を失い、何かゾッとするほど冷たい、違和感に満ちた異物となってロカンタンの前に現れます。
 思索者でも哲学者でもない平凡な中年男にいったい何が起きたのだろうか? すべての人間は、目の前にあるものとはまったく別のことを想像することができます。人間の意識には、目の前にある存在を否定する力が備わっているのです。サルトルは、この動きを「無化(むか)」と呼びました。人間は、自分の外側にどんなに強固な現実があっても、そこから離れることができるのです。


 スペイン内乱で人民前線派に加わった死刑囚を描いた『壁』の一節があります。
 「わたしの肉体から来るすべてのものは、やけにうさんくさいのだ。たいていのときは肉体は黙っておとなしくしている。わたしにはもう、一種の重さのようなもの、わたしに対立する醜悪な存在しか感じない。巨大な蛆虫につながれているような印象だ」
 翌日に銃殺をひかえた死刑囚は、このようにして、自分の死という強固な現実からも遊離します。


 サルトルは、このような人間の在り方を「対自存在(自分と向かい合う存在)」と呼び、物の在り方との決定的な違いを指摘しました。物は、自分の本質から離れて別のものになることはできません。また、物は、力が加わった方向にしか動きません。それに対し、人間は、自分の本質から離れて別のものになることができ、自分の意志によって力が加わった方向とは別の方向に動くこともできます。人間の意識と意志は、人間に限りない「自由」を与えています。
 また、人間は、過去からも「自由」です。「自分は、臆病(おくびょう)な人間だった」と過去を自省しながら、線路に落ちた子どもを助けるために、ホームから飛び降りることもできます。


 こうした「自由」は、「無根拠」ということでもあります。意識によって目の前の現実や自分の肉体から離れることができ、意志の力によって常に過去の自分を変更することができるならば、人間の根拠は無に等しいではないかとサルトルはいいます。
 サルトルによれば、絶えず意識と意志を働かせていなければ確かな存在を得ることのできない人間は、「自由の刑に処されている」ようなものです。


 1932年、サルトルは、パリのカフェでドイツから帰国したレーモン・アロンに会いました。そのときアロンは、テーブルに置かれたコップを手に取ってこう言いました。
 「フッサールの現象学にかかれば、このコップからでも哲学ができてしまう」
 この一言にサルトルは、感動を覚えました。
 これをきっかけにサルトルは、ベルリンに渡ってフッサール哲学の吸収に没頭します。フッサールの現象学のなかでサルトルに最も強い影響を与えたのは「志向性」の概念でした。
 人間には、単に事実を受容するだけでなく、自ら対象に向かって働きかける「志向性」が備わっている、という概念です。
 サルトルは、これを自分の哲学に取り入れ、人間が「自由の刑」から脱するための方法論に発展させました。確たる根拠をもたない人間は、絶えず自由意思を働かせて対象に向かっていくべきだとして、その姿勢を「アンガージュマン」と名付けました。
 「アンガージュマン」は、日本では後に「自主的な政治参加」の意味で使われるようになったが、本来は、真に生きるための根源的な姿勢を意味してます。


■ メルロ=ポンティ
 フランス哲学者。フッサールの現象学を敷衍(ふえん)し、それまで西欧の哲学が目を向けなかった身体を知覚の中心に置くことで、哲学の新領域を切り拓きました。1952年から、コレージュ・ド・フランスの教授を務めました。未完の大著『見えるものと見えないもの』を執筆中、53歳で死去。


 「心身」という日本語は、そもそもは「身心」であったといいます。「腹が減っては戦はできぬ」という戦国時代以前の考えが、江戸時代になって精神論が流行すると、「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」になりました。ここ数年の日本では「身体感覚」という言葉があります。これは、戦国時代の「身心論」への回帰といえるだろう。


 「身体」を知覚における最大の媒介物(ばいかいぶつ)とする哲学を最初に提出したのは、20世紀のフランス人哲学者メルロ=ポンティです。
 かつてデカルトは、「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」の言葉によって、精神こそが世界の主体であるという宣言をしました。ポンティは、その「コギト」をもじって、「我能う、ゆえに我あり」の言葉を残しました。


 サルトルの協力者でもあったポンティは、次第にサルトルの提唱する「対自存在」に疑問を持つようになりました。人間は、現実の状況から「自由」に離れることができるという考え方は、ポンティにとっては、あまりにも身体の問題を無視しているように思いました。その疑問から発して、ポンティは、こう考えました。
 私たち人間は、サルトルのいうような「自由」はもっとおらず、むしろ既得的な基盤としての身体の縛りから逃れることができないのだと――。
 ポンティにとっての「身体」は、世界を「見る」主体ではなく、世界に「住まう」主体です。人間は、世界との交流を通して「身体」にしみ込んだ潜在的な志向により、人間世界の習慣や文化を表現しています。これが、ポンティ哲学の大前提です。


 この大前提に立って、ポンティは、「身体図式」という理論を打ち立てました。
 人間の動作、運動、仕事は、習慣的に身についた動きによって、ほとんど自動的になされています。その機能は、熟練者であるほど、ミスを犯すことなく目的となる任務へと統合されていきます。その統合が、ポンティのいう「身体図式」です。
 身体は、その「身体図式」を介して、ある一定の状況に対応する形で一つの「系(システム)」を成します。状況と一体になって系を成す身体の有り方を、ポンティは「状況的存在」と呼んでいます。


 また、サルトルとともにフッサールの現象学を学んだポンティは、「錯視」と身体の関係にも目を向けました。
 ポンティによれば、錯視が起こるのは、私たちが精神よりも先に身体によってこの世界と交流していることの証にほかなりません。
 例えば、はじめて北海道の大平原に立った旅行者は、広大な地平線に沈む夕日の大きさに感動し、「この夕日は、都会で見る夕日の2倍もある」などと思い込みます。だが、実際に指で円をつくって測れば、大平原の夕日も都会の夕日も大きさは変わらないのです。都会の夕日が小さく見えるのは、その大きさを比較するビルがあるからにすぎません。
 このように私たちは、精神よりも先に身体にしみ込んだ経験的、習慣的な近くにより世界を把握しています。その経験、習慣は強い力で精神を縛りつけているので、私たちは、いくら注意しても錯視を避けることはできません。
 古代の人間は、太陽を神と崇めました。自分が太陽によって養われているという身体的認識の産物でもあります。それを「身体的な知性」と呼ぶこともできます。


■ レヴィナス
 フランスのユダヤ系哲学者。出身はリトアニア。1928年から1929年に、フライブルクでフッサールとハイデッガーの講義を聴講。自分の哲学をつくる基礎を固めました。しかし、第二次大戦中、ユダヤ人としてナチスの強制収容所に囚われた体験から、戦後はナチスを支持したハイデッガーを批判する立場を明確にしました。主著に『フッサール現象学における直観理論』、『全体性と無限』があります。


 ナチスの強制収容所が囚人たちに与えたのは、暴力と飢餓への恐怖だけではありません。そこでは、人間性のすべてを剥奪(はくだつ)する侮辱(ぶじょく)と、人間世界全体への強い不信を植え付ける極度の精神的虐待が行われました。
 ユダヤ系フランス人としてナチスの強制収容所に送り込まれたレヴィナスは、収容所から帰還後、自分の目に映る世界が大きく変貌(へんぼう)しているのに気づいて愕然(がくぜん)となりました。
 その変貌とは、戦争による国の荒廃(こうはい)ではありません。人間として築いてきた価値観や誇りのすべてを奪われたレヴィナスは、自分がいまだに生きて存在していることが信じられませんでした。レヴィナス自身の内部がまったく虚ろになってしまったために、自分を包む世界がありもしない虚像に思えたのです。


 レヴィナスは、自分に向けてこう問いを発しました。
 「にもかかわらず、私は存在している。いったい、この存在をどう考えたらいいのか」
 あまりにも危うい存在感から発した苦悶(くもん)―― それが、レヴィナスの哲学の出発点になりました。


 世界全体への強い不信を抱いていたレヴィナスは、その思いのままに、決して全体性に組み込むことのできない何かを探しました。そうして発見されたのが、自分に羞恥(しゅうち)を覚えさせる他者の「顔」です。羞恥は、自分が日ごろ隠している部分を他者に見られてしまうことによって生まれます。その羞恥が生まれたとき、人間は、自分であることを拒みたくなり、自分であることに耐えられなくなります。その果ては、自分を空(くう)にして、自分を超えた何者かになることを求めるようになります。
 その自己否定は、自分についての意味づけとともに、他者についての意味づけも失っていく過程です。自分の恥ずかしいところを見てしまった他者もまた、否定の対象にせずにはおけないのです。
 さらに、自分を超えた何者かになろうというあがきは、永遠に結論が得られず無限に続くため、「私」は、全体性の破れた網から脱け出して、一個の主体になります。


■ バートランド・ラッセル
 イギリスの論理学者、数学者、哲学者。1950年にノーベル文学賞を受賞。第一次大戦中、反戦運動によってケンブリッジ大学を追われます。それ以後も反戦、反核運動を続け、その哲学理論とともに社会運動における活躍が注目されました。ハーバード大学教授ホワイトヘッドとの共著、『プリンキピア・マテマティカ』全3巻(1910 - 1913)によって、記号論理学の革新を果たしました。他の著書に『哲学の諸問題』、『人間の知識』があります。


 バートランド・ラッセルの「記号論理学」について説明する前に、まず論理学とは何かを説明します。
 論理学を一言でいえば、「どのような推論が妥当であるかを体系的に研究する学問」のことです。それは、アリストテレスに始まる演繹的推論、フランシス・ベーコンに始まる帰納法的推論に大別されます。また、ヘーゲルの弁証法、マルクスの唯物史観、フッサールの現象学も、論理学です。


 「記号論理学」とは、推論を構成する文を数学的な記号によって表現し、推論の記号を記号操作の規則に従って定式化する論理学をいいます。ラッセルは、その「記号論理学」で、推論を記号的に分解して推論の真偽を判断する方法に用いました。これが、ラッセルの「記述理論」です。


 例題として、


 ”木になったスイカは、きっと苦い――”


 この推論の真偽を判定するのは、意外に難しいです。それは、「木になったスイカ」という存在しないものを前提において存在することにしてしまっているからです。
 この推論を、記述理論のパターンに則して分解すると、以下のようになります。


 ” x は、木になったスイカである”
 ” x は、きっと苦い”
 ” x は、存在する――”
 
 
 ここで、x は存在しないことになります。つまり、部分に分解することによって、この推論全体が正しくないことが証明されるわけです。
 三段論法の真偽も、同じ方法でチェックすることができます。


 ① 私は、誰にも疑うことのできない完全な存在である
 ② しかし、この世には、絶対に疑うことのできない完全な存在などありえない
 ③ だから、それを外部から私に与えてくれた何者かがいると考えるしかない
 ④ その何者かは、神しか考えなれない


 以上は、デカルトによって行われた「神の証明」です。この命題を「記述理論」でチェックしてみましょう。


 ① x(私)は、誰にも疑うことのできない完全な存在である
 ② y(神)は、この世で唯一の完全な存在である
 ③ ゆえに、x は y から与えられたものと考えるしかない


 ③の結論は、A「x = 誰にも疑うことのできない存在」、B「y = この世で唯一の完全な存在」という "二元方程式" によって導かれています。しかし、Aの方程式、Bの方程式には、どんな根拠も認められません。よって、そこから、導かれる答えにも、いかなる根拠も認められないことになります。
 このように、三段論法による演繹的推論は、その一画が崩れることによって、すべてが崩れる構造になっています。
 ただ、すべての論理学が、「記述理論」によって論理の欠陥を暴かれてしまうわけではありません。
 例えば、演繹的推論の始祖とされるアリストテレスは、以下のように考えました。


 ① 人間の赤子や植物の種子は、いかにも未熟な姿をしている
 ② だが、成長するにつれ、似ても似つかない成熟した姿に変貌する
 ③ ゆえに、その内側には、成長に向かって姿を変えていく力が秘められているにちがいない


 この場合、①と②は、客観的な観察によって得られたもので、あらためて証明するまでもない事実となります。自ずと、③の推論も、遺伝情報の存在を予見したような明察となっています。つまり、「記述理論」は、推論の正しさを証明するものあります。


■ ウィトゲンシュタイン
 オーストリアの哲学者。ウィーンのユダヤ系大富豪の家に生まれ、ケンブリッジ大学で論理学、哲学を学びました。1908年以降は、イギリスを主な拠点に定め、バートランド・ラッセルに学びました。1929年には、ケンブリッジ大学の教壇に立ちます。学生の質問に対する答えを考えることに熱中するあまり授業がまったく進まなかった、というエピソードがあります。言語のもつ意味性をはじめて追求した、20世紀で最も重要な哲学者の一人。初期の代表作『論理哲学論考』は、第一次大戦に従軍中に書かれたものです。他の代表作に『哲学探究』(死後、1953年に刊行)があります。


 バートランド・ラッセルは、推論を部分に分解することによって、論理の真偽を判断する法を発明しました。そのラッセルに論理哲学を学んだウィトゲンシュタインは、言語そのものの真偽を判定する試みに挑みました。


 初期の代表作『論理哲学論考』のなかで、ウィトゲンシュタインは、「これまでの形而上学はすべて無意味だった」と宣言しました。その論拠は、まさに形而上学が用いてきた言語そのものにあります。形而上学では、「意志」、「存在」、「真理」などに独自の意味、過剰な意味がこれられてきました。
 例えば、ハイデッガーは、「世界内存在は実存の根本機能である」という命題を提出したが、「世界」、「内」、「存在」とは具体的に何を指しているのか?
 解釈の仕方によって大きく意味が違ってくる言葉を並べた命題は、その真偽を確かめようがありません。そうした確かめようもないことを命題として語ってきたのが、形而上学なのだとウィトゲンシュタインはいいます。彼によれば、その命題が明らかな事実に対応していれば真実であり、明らかな事実に対応していなければ嘘であります。つまり、「世界の人口は、1950年の調べでは約25億人である」というような命題だけが真実なのです。
 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と、『論理哲学論考』の末尾で語った言葉が、ウィトゲンシュタインの開いた「分析哲学」を貫く命題です。
 『論理哲学論考』は、哲学の一分野である論理学にも矛先を向けて、「人を殺してはいけない」という倫理の命題は、「なぜ、殺していけないか」を永遠に証明することのできない「一種の美意識にすぎない」と断じています。


 また、彼は、私たちが使っている日常言語にも真偽判定の目を向けました。
 例えば、「いいお天気ですね」という「いい」とは、どんな意味なのか? これが「晴れ」を意味するのは、単なるルールです。野球をまったく知らない人は、「ヒットを打った人は、どうして三塁に行ってはダメなの?」と尋ねるけれど、こうした疑問に対しては、「そういうルールだからだ」としか答えようがありません。ルールには、「どうして」という疑問に対する根拠はありません。
 同様に日常言語も、「言語ゲーム」を成立させるためのルールに従っているにすぎません。
 さらに、ウィトゲンシュタインの分析によれば、最もシンプルにして最も肝心(かんじん)な「私」も、実は何も示していない言葉になります。「私」は「私の身体」ではないし、「私の名前」でもありません。「たった今しゃべっている私」を示しているわけでもありません。つまり、この言語もまた、根拠のないルールに則った言語ゲームの一環(いっかん)にほかなりません。
 そこで、ウィトゲンシュタインは、言葉の意味するものが先にあるのではなく、言葉のルールが先にあるのだと――。と結論づけます。この結論は、「私」を主体の「存在」と結びつけてきた形而上学的発想への決別を告げています。



----- 哲学者の系譜 --------------


● マルクス(1818 - 1883)
 「プロレタリアが主権を握る社会への革命」


● ニーチェ(1844 - 1900)
 「" 神は死んだ "と叫び、ニヒリズムを提唱」


● フロイト(1856 - 1939)
 「人類が意識下にもっている無意識を発見」


● フッサール(1859 - 1938)
 「思い込みを排除し、まず疑ってみる」


● ベルグソン(1859 - 1941)
 「人の心象こそが、あらゆる事物を決める(生の哲学)」


● バートランド・ラッセル(1872 - 1970)
 「正しいものを見極めるための論理学(記述理論)」


● ユング(1875 - 1967)
 「夢分析から説いた人類共通の無意識」


● ウィトゲンシュタイン(1889 - 1951)
 「言語そのものの意味を初めて研究(分析哲学)」


● ハイデッガー(1889 - 1976)
 「" なぜ存在するのか "を初めて問う」


● サルトル(1905 - 1980)
 「人間の真の自由と志向性を探る」


● レヴィナス(1905 - 1995)
 「にもかかわらず、私は存在する」


● メルロ = ポンティ(1908 - 1961)
 「身体に主眼をおいた" 身体図式 "とは」


---------------------------------



 現代は、"モノ社会" で精神の価値を追い払ってしまってしまいました。資本主義に慣れきった、"モノ社会" への批判が唱えられていたりします。しかし、資本主義や共産主義について議論して、何を得られるのでしょう。人々の価値観は様々であり、主張が異なるのは自然なことです。
 そして、現代の哲学は、信仰にも思想にも拠り所をもたず、根源的な強さを求めることにこそ、思想の始まりがありました。



【参考文献】
・常識として知っておきたい 世界の哲学者50人
 著者:夢プロジェクト[編]
 発行:河出書房新社


常識として知っておきたい世界の哲学者50人 (KAWADE夢文庫)/河出書房新社
¥555
Amazon.co.jp

(´・ω・`)