かくかくしかじか、ここでは書けない見えない世界の攻撃やらなんやらがあったけど、とある方から連絡が来たことで、ようやく「一連の件」が本当の意味で終息したような気がした。

先祖の出会いやこの世に生を受ける確率などを鑑みると、ある意味みんながそれぞれ特別であるとわたしは思っている。でもそれは自分以外みんな下、という意味ではない。
しかし、自分をそうだと思い込み、周りを逆恨みし、自分のことを棚に上げ人のせいにする人がいる。そのつけが大切なものへの影響として出たとしてもなお、それに気づかず理由を外に探し求める。本人がその理由に気がつくまでそのループは終わらない。
見えない世界の返しは本当に怖い。わたしが経験したことは、自己評価が低くプライドの高いひとが生みだした、歪んだ選民思想の成れの果てかなあと思っている。しかしこれらを学べたことにはとても意味があったと思っている。

話は変わるが、ある友人が教えてくれたことがある。ウガンダの内戦の話だ。自分の首を切りつけ殺そうとした兵士に対して、奇跡的に命を取り留めた女性が、兵士を赦したという話。今は普通に付き合いもあるという。
命に関わることであっても、人を赦せるか?これはわたしに起きたことの比ではないが、この話を聞き赦すとは何かを考えている。

自分のことだけで言えば、人を恨んだことはもちろんある。数年ずっとくすぶり続けていたことだった。しかしある時、なんとなく手放せた気がした。それはいきなりではなく、じわじわと手放していったのだと思うが、その時に感じたことは
【人恨むことは自分を縛ることでもあり、恨むことを辞めるのは自分をその事柄から解放することでもある】
ということだった。

自分も相手も解放することができれば、目の前にある問題は問題ではなくなるのかもしれない。少なくとも相手や自分、過去のことには縛られることはなくなる。
前述したような選民思想、恨みや嫉妬のネガティブなパワーは時に爆発的な力を得ることができる。しかしそれは周りを見ていると、使い続けることで周りの人間関係、心身をも壊していくように思える。
楽しみ、愛などのポジティブなパワーは、自分を満たし、相手に感動や幸せを届けることができる。自分が満たされていることは、何かをしようという原動力にもなる。

わたしならどちらを求めるか。それは言うまでもないことのように思う。