エルヴィス・プレスリーを語る時に、いつでも付いて回る人物がいる。
それは、「パーカー大佐」という男・・・。
エルヴィスのマネージメントを牛耳っていた。
今回初めて、ちゃんと調べてみたんですが、それまでは、「マネージャー」というのは分かっていたが、なぜ名前に「大佐」が付くんだろう?と・・・。
フル・ネームは、トーマス・アンドリュー・パーカー。
エルヴィスが、徴兵で軍隊に入った時に知り合い、パーカーは上司だが、元は音楽関係の職業の出身で、或いは、音楽業界にかなり精通していて、今でも顔が利く・・・などの理由で、エルヴィスが除隊になった際には、「二人で音楽業界に新風を巻き起こそう!」というような経緯だったのかな?とか思っていたんですが、全然違いました・・・。
今日は、その「パーカー大佐」の話がメインになってしまいます。
「大佐」というのは、ニックネームで、アメリカの偉大なカントリー・シンガーの一人、エディ・アーノルドのマネージャーをパーカーがしていた頃に、ルイジアナ州知事のジミー・デイヴィスによって付けられた「敬称」だったという。
パーカーという名前自体、本名ではなく、本名は、アンドレアス・コーネリス・ファン・クーイク。
元々、彼はどの国の市民権を持たない、オランダ人亡命者だった。米国にやって来て、国籍をとる目的で軍隊に入り、1929年~32年まで第64沿岸砲兵部隊で任務に就き、米国の国籍を取得した。その時の上官の名前がパーカーで、それを頂いてしまったようです・・・。
そして、国籍を取り、除隊すると、早速ビジネスを始めた。最初は、サーカスとカーニヴァルの世界で腕前を発揮し、巡業団を立ち上げ、興行師として成功。第2次世界大戦後は、カントリー歌手のマネージメントに切り替え、エディ・アーノルドやハンク・スノーを大物スターに育てた。そのマネージメント能力は優れていて、業界では有名な存在となった。しかし、1953年、エディ・アーノルドは、「大佐」のアーティストに対する強引なマネージメントに業を煮やし、電報によって解雇通告をしたという。
この後パーカー大佐は、1954年に彗星のごとく出現したエルヴィスに目を付け、「もっと有名にしてやる」と言って近づき、そのための契約をしようと迫った・・・。
当時エルヴィスの所属レコード会社は、地方レーベルの「サン・レコード」で、エルヴィスには仕事の話が多く舞い込み、活動範囲が拡がり、サン・レコードでは、捌き切れない状況であった。そして、まだ未成年であったエルヴィスの代わりに、保護者である両親との話し合いもあり、メジャー・レーベルの「RCA ビクター」への移籍話しと共に、契約を交わした。この時のパーカー大佐がエルヴィス側に突き付けた契約条件は、エルヴィス側にとって、きわめて不利なものだったという。最初の契約では、パーカー大佐の取り分が収益の25パーセント。1967年の契約更改では、50パーセントという異常な数字に跳ね上がったという・・・。
しかしこれは、見方を換えれば、10年ちょっとでエルヴィスを本当に大スターに仕立て上げる事ができた、「有能なマネージャー」だったとも言えるのかもしれない・・・。
契約時のエルヴィスの父親の職業は、トラックの運転手であったという事もあり、貧しい暮らしであったという事、強い権力には従属すべきという、その時代背景や社会情勢などもあり、著名なカントリー・シンガーのマネージャーであったという豊富な経験・知識・実績を持ったパーカー大佐にマネージメントを委ねた、というエルヴィス側の判断は、しょうがない事だったんではないか?と思います・・・。
「月の収入が、数万円の生活から何百万円、何千万円になるんですよ!例え、私の取り分が25パーセントであっても・・・。」というような話しだったんでしょう。
そして、両親は、エルヴィスの才能を信じたし、エルヴィス自身も家族の生活を、どうにか変えてあげたかった・・・。
そして、その夢は「叶った」という事になるんでしょう・・・。
さて、曲に参ります。
エルヴィスの「オールウェイズ・オン・マイ・マインド」は、1972年にリリース。この5年後に、42歳という若さで亡くなったのが、1977年。ラスヴェガス公演などをやっていた頃で、晩年の曲と言っていいのでしょう・・・。
この曲のオリジナルは、明日紹介しますが、その前年の1971年リリース。
アルバム「Walk a Mile in My Shoes:The Essetial 70's Masters」(1995年)に収録。
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では、また。