2022年4月 社会科見学 『沖縄』 | ママの参考に! 中学入試のプロ家庭教師@千葉周辺 のブログ

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ノートの書き方を重視し指導します。
家庭教師、教場指導、選べます。
教場指導は幕張本郷で行っており、復習がまわらない子や理解出来ない子の空間です。
近隣はもちろん、成田、浦安、酒々井、八街、大網白里、松戸、三郷、流山などから、毎年集まっています。

年に1回だけ、まとまったお休みを毎年いただいています。トラベラーの皆様、長らくお待たせいたしました。
 
本当は海外に行って、異国の文化や歴史を感じたいのですが・・・・・
4/1の朝はここにいました。国内で我慢です。

 

海外はもう2年半ご無沙汰・・・・(涙)

↓前回はこの社会化見学でしたが、あのような悲惨な戦争が起きるとは・・・ 本当に悲しいです。

 

3時間で到着。那覇空港です。

 
到着後すぐにレンタカーを借ります。
沖縄は初めての訪問でした。滞在中、びっくりしたこと、不思議なことがいくつかありました。
 
●その1
あるテナントの駐車場です。
「わ」と「れ」のナンバーだらけ!
本当にレンタカーが多いですよ。
あとは「Y」も多いですねぇ。米軍所有の車です。
 
●その2
「石敢當」はいしがんとうと読み、沖縄で古くから信じられている魔物=マジムンを撃退する、魔除けの役割を果たす石碑だそうです。
そもそも石敢當とは琉球時代から交流のある、中国の福建省から伝来したもので、強い武士の名前にちなんでそう呼ばれています。本当にこの石碑があちこちにあります。
 
入り口にシーサーがいる家も多いですよ。
 
●その3
街の家
台湾に似ていると思いませんか?
家の作りが内地とは全く違いました。
 
ほとんどの屋根には、タンクが設置されています。
「雨水タンク? どうして屋根? ポンプアップしてためる?」
その場で調べましたよ。水不足に備えて、水道水を各家庭でためておくらしいです。
 
これら↑の家の全ては、大戦後に作られたものです。米軍の攻撃により、当時の住宅はほとんどが爆破されてしまいました。
しかし、街を歩いていると、奇跡的に残った戦前の家屋がありました。(背面しかなくてすみません)
この建物は、古民家カフェとして利用されていました。
 
 
さーて、観光しましょう!
沖縄やパラオは珊瑚の島。小笠原やグアムやサイパンの火山島とは違います。
(グアム、サイパン、パラオは昔のブログにあります)
ですから、この通り~。
ちなみに珊瑚は島外持ち出し禁止です。
 
海の生き物もたくさんです。
 
 
 
 
 
 
次は、沖縄についての勉強です。
日本で唯一地上戦が行われたのが沖縄でした。
沖縄戦は1945年3月26日の慶良間諸島米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われました。沖縄守備軍(第32軍)の任務は、南西諸島を本土として守りぬくことではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けし、国体護持・本土決戦に備えることでありました。
米兵55万人に対し、日本兵11万人(うち現地召集3万人)です。つまり大本営は、沖縄戦は「勝てない」とある程度予測していたわけです。
 
まずは、ひめゆり平和記念館を訪問しました。「ひめゆり学徒隊」、誰でも聞いたことはあると思います。
沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の222人構成された看護要員です。女学生まで戦争に巻き込まれたわけです。
立派な病院なんてものはあるわけもなく、自然洞窟(ガマと呼びます)に病院らしきものを構え、そこで負傷した兵隊さんの治療をしました。
 
そのひめゆり学徒隊が配置された沖縄県内のガマをいくつか訪問しました。
 
沖縄陸軍第三外科壕です。
このガマの中で何があったのか?考えながら読み進めてください。
 すぐ隣にひめゆりの塔があります。
さらに隣には、ひめゆり平和祈念資料館があります。
学徒隊の仕事とは・・・
・負傷した兵隊さんのケア
・手術(ほとんどの手術は手足を切り落とすことです)の補佐(負傷兵が暴れないように押さえつけること)
・食事の準備
だそうです。
こんな若い子が戦争に巻き込まれて、亡くなりました。
 
 
ひめゆり平和記念館から車で10分ほど移動しました。
沖縄平和祈念公園です。
去る沖縄戦などでなくなられた国内外20万人の氏名が刻銘されています。
 
こちらは、糸数アブチラガマ。

本島南部の南城市玉城字糸数にあります。

沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、後に日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。

近くの案内センターで、色々話が聞けました。

軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。
昭和20年(1945年)5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出たそうです。

けど、この米兵の勧告をどれくらいの避難民が受け入れたと思いますか?受け入れなかった避難民、受け入れたくてもそうは出来なかった避難民はどうしたと思いますか?

 

こちらは、コロナで入れませんでしたが、沖縄陸軍病院南風原壕群20号です。

南風原町には黄金森(こがねもり)とよばれる小高い森があります。日本軍は沖縄戦に備え、黄金森に沖縄陸軍病院壕群を構築しました。院長以下、軍医・看護婦・衛生兵・ひめゆり学徒らがここでも傷病兵の治療に当たりました。
 
沖縄戦が始まると数千名の傷病兵が運び込まれましたが、医療設備や薬がとぼしいなか、満足な治療はできませんでした。麻酔のないままの手術や手足の切断なども日常的におこなわれました。
やがて米軍の侵攻が進むなかで、沖縄陸軍病院は南部へと撤退することになりました。連れていけない重症患者は、青酸カリによる自決を強要されるなど、多くが悲惨な最期をむかえます。
 
「旧海軍司令壕」です。海軍壕公園内にあります
海軍司令壕は沖縄戦で、大日本帝国の司令部として使われた防空壕です。最高軍事機密のため、民間人は近づくことができず工事の着手は軍隊のみで行われました。約3,000人の将兵が昼夜5ヶ月間かけ手掘りで掘った跡、手榴弾で自決した弾痕跡、司令長官が壁に書き残した文字など、当時の戦況を今に伝える貴重な壕です。
日本海軍沖縄方面部隊を指揮する「海軍司令部基地」として構築されたこの壕は、激しい戦闘の末、日本海軍が組織的戦闘の終焉を迎えた場所で、ほぼ当時のまま残されている貴重な施設となっています。
 
↑の壕やガマの多くは、入り口付近が焦げています。
サイパン島や硫黄島の地下要塞と同じく、このような攻撃にあったからです。
 
 
こちらはのどかな住宅地です。
わき道にそれ、草むらを進みます。
↓↓↓↓↓↓
↓↓↓↓↓↓
↓↓↓↓↓↓ 暗くなってきました。
↓↓↓↓↓↓サンダルは危険です。
↓↓↓↓↓↓ ガマがあります。読谷村のシムクガマです。
中には記念碑があります。
多くのガマでは、鬼畜と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあうという凄惨な「集団自決」が行なわれました。
シムクガマにも、アメリカ軍が迫って来ました。
アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。
その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治さん(当時72歳)と比嘉平三さん(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1000人前後の避難民の命が助かったということです。
この事実に基づいて波平区では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立あるそうです。
 
このシムクガマは住宅地から少し入った場所にあります。
路地を歩いていると、「どこから来たの~?」とおばあちゃんが話しかけてくれました。
 
聞くと、このおばあちゃんもこのガマに隠れていたそうです。
当時3歳、ほとんど覚えていないといっていましたが、この住宅街を走るこの道↓は、アメリカ軍が作った道だと教えてくれました。
 
 
こちらは、沖縄市戦後文化資料展示館です。
米軍基地が沖縄にあることの影響を調べたくて、訪問しました。
恥ずかしながら、「毒ガス事件」は知りませんでした。この展示館を一通り見て学習してから、次の目的地に向かいます。
 
 
これらのお店をご覧ください。
 
 
 
 
日本ではないみたいでしょう。
場所はこちらです。米軍基地で現地の経済が潤っているのですね。
 
近くには、道の駅がありました。
 
道の駅の中には、嘉手納基地についての展示がありました。
基地内に、自分の家がある、お墓がある・・・・
戦後米軍に強制収用されてしまったために、自由に立ち入ることは出来ないのです。
さらに、近隣での戦闘機墜落、地下水汚染、など、問題は山積です。
 
嘉手納基地です。規模の大きさにびっくりします。
この広大な土地内に、米軍とその家族用の家屋、商店、学校など施設があるそうです。
 
 
次は、こちらに目を通しましょう。
辺野古です。
 
基地近くでは、
そうなりますよね・・・。
なぜ沖縄ばかり犠牲にならなければならないのだろう・・・。
 
基地近くは、やはり英語ばかりです。
嘉手納基地同様、米軍向けのお店を見ることが出来ます。
 
辺野古漁港からアクセスし、基地まで近づいてみました。
フェンスが見えるでしょう。
こわーい機動隊👮の人が見張っていました。
この先で、埋め立てが行われたのです。
 
 
こちらは宿泊したホテルのうちの1つです。
ここでも米軍です

 

快適でした🎵
 
 
 
ホテルの敷地内には…
またフェンスです
 
 
 
こんなのどかな所での平和で静かな日常が、戦争により滅茶苦茶にされてしまった…
それが沖縄です。
 
日本人として
知っておくべき事実だと思いました。
 
オマケ
内地では手に入らないこれら。
美味しかったです。
 
 

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