「何してるの。寝てなきゃ、駄目よ。」

「トイレ。」

「看護婦さん、呼ぶから、待って。」

「いいよ、一人で行けるから。」

「でも・・・。」

「いいから、ほっといて。」

****************


ボクは、点滴が入っていることを失念していたが、足元を見ればキャスター付きだったので、支えにしながら押していけると思った。

ここが、一体何処の病院かすら知らないので、トイレの位置など皆目分からなかったが、歩いていれば何処かにあるだろうと、ふらふらしながら探した。

何故か、頭が割れるように痛んだ。

此処は一階だったようで、少し歩くと待合室のような場所に出た。

手近にあったトイレに入り、用を足した。

母は、ボクがほっとけと言ったから、部屋で待っているようで、ついて来ては居なかった。


用を足しながら、ボクは風呂に入っていたのに、ちゃんと服を着ているところを見ると、これはケンゴウが着せてくれた物なんだとやっと気づいた。

ボクの好きな、緑のタータンチェック柄をしたボタンダウンのシャツだった。

短いデニムのスカートを履いていた。

下着はシンプルな物だった。

ふと、ケンゴウを思った。


トイレから出ると、病室には戻らず、カラカラと点滴のキャスターを押しながら、待合室の方へと向かった。

無性に煙草が吸いたかった。

ポケットを探ったが金を持っているはずもなく、病室まで戻って母に金を貰おうかどうしようかと足を止めて思案したが、人影を見つけて近寄った。

中年の男が、ちょうど煙草を吸っていた。

僕は頼み込んで一本分けてもらった。

ハイライトだった。

火を点けてもらい礼を言うと、座らずにぶらぶらと歩いた。

中ほどまで吸った頃、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。

走っている。

どんどんその音が近づいてきて、僕は吸いかけの煙草を取り上げられた。

看護婦が、鬼のような形相で僕を見つめていた。

その隣には母も居たが、どんな顔をしていたかよく見なかった。


看護婦に静かな口調で厳しく咎められて、そのまま病室に連れ戻されてしまった。

それからは、まんじりともせずに、ベッドの上で夜を明かした。

何故眠れないのだろう。

不思議だった。


「俺、アパートに帰ってるから。今夜はゆっくり休め。」

「うん。ありがと。」

それだけ言うと、母に目礼して出ていった。

ボクは母を見ずに、また反対を向いた。

点滴はまだ終わらない。

****************


何故か、股間が痛んだ。

なにかよく分からないが、違和感がある。そっと、空いた手で触れてみた。

チューブが股間から伸びていた。


「看護婦さん。」

「はい、どうしました?」

「何か、チューブが入ってる?」

「ええ、意識がなかったし、点滴を暫くしなくちゃいけないから、おしっこの管が入ってるのよ。」

「除けて。痛い。」

「でも・・・。」

「もう、意識ははっきりしてるでしょ。大丈夫だから、お願い。」

「じゃあ、ちょっと待っててね。先生に聞いてくるから。」


結局、管を抜いてくれた。

そして、ボクが落ち着いた所為か、看護婦も部屋から居なくなった。


母と二人きりというのも気詰まりだったが、ボクは寝た振りをして何も喋らなかった。

あれだけ睡眠薬を飲んだというのに、胃洗浄で全部吸い上げられたのか、眠気は全く訪れなかった。

目を瞑り、色々と考えていたが、導尿の管を抜いたあとも、何かが刺さっているような感覚があり、厭な感じでずっと気になった。

暫くは我慢していたが、自分の尿道の在処が分かるような感覚に、だんだんと尿意を催してきて、どうにも我慢できなくなった。

もう、満タンになったような感じで、膀胱も膨らみすぎたのか、下腹部が膨満して痛んだ。

ボクは、やおら起きあがると、ベッドを下りようとした。

緩慢な動きであったのに、ふらついた。

ベッドの下に、ケンゴウが持ってきたのだろう、ボクのサンダルが揃えて置いてあった。

それを突っ掛けようとして、足が縺れてなかなか履けなかった。


「何してるの。寝てなきゃ、駄目よ。」

「トイレ。」

「看護婦さん、呼ぶから、待って。」

「いいよ、一人で行けるから。」

「でも・・・。」

「いいから、ほっといて。」



突然ドアが開き、慌ただしく誰かが入ってきた。

叫ぶように喋るその人は、母だった。

やっかいなことになってしまった。

今度は、ケンゴウが母に叱られる。

可哀想に。
***************


母は、強張った顔でボクを見た。

暫し絶句の後、涙を流した。

こういうシチュエーションは、至極苦手だ。

ボクは反対を向き、壁を見つめたまま黙っていた。

母は、一頻り涙を流すと少し落ち着いたのか、話し掛けてきた。


「一体、何があったの?」

「別に。何も無いよ。ちょっと、薬の量を間違っただけだから。」


長い間会っていなかった母は、やつれていた。


「お父さんとお母さんには、あなたしか居ないんだからね。」


へえ、そうなんだ。

じゃあ、そのボクにも分かるように浮気をした尻軽のあんたは、その時ボクの母はあんたしか居ないって、思っていなかったのかよ。

まあ、今更いいや。

血は争えないっていうけど、その血がボクにも、確かに通っているんだもんな。


「どうってことないよ。もう、どうってことない。」

「まあ、喋れるくらいだから、もう落ち着いたんでしょうけど。」


ボクはもう母と喋る気にはなれず、反対を向いたまま目を閉じた。

看護婦の勧めた椅子に腰掛けた母は、時々ため息を付きながらきっとボクのほうをじっと見ているのだろう。

背中がじりじりとしてくるようだった。


ドアの開く音がした。

足音で、ケンゴウだと分かった。

母がドアのほうまで歩み寄ったのか、遠い場所でぼそぼそと喋っている。

母は、怒りを押さえ込んだようでいて、それが露になった口調でケンゴウを詰っている。

ケンゴウが大人しくそれを聞いている。

やっぱり思ったとおり、母に叱られた。

帰れと言われているようだ。

足音が近づいてきたので、ボクは振り返った。


「大丈夫か?」

「うん、ごめんね。心配掛けちゃった。」

「俺、アパートに帰ってるから。今夜はゆっくり休め。」

「うん。ありがと。」


それだけ言うと、母に目礼して出ていった。

ボクは母を見ずに、また反対を向いた。

点滴はまだ終わらない。