瀧廉太郎/Taki Rentarou(1879~1903)

 

  瀧廉太郎の概略

不朽の名歌〈荒城の月〉、誰もが歌える「春のうららの隅田川」のフレーズ───。

西洋音楽の揺籃期に、そして明治という世の何もかもが手探りだった時代に、日本の音楽の発展に命をかけ、23歳という若さで世を去った天才作曲家『瀧廉太郎』の作品を紹介したい。

1879年に東京で生まれた瀧廉太郎は、父の転勤に伴い各地を転々とした。鎖国を終えた港街横浜では多くの外国人と交流し、西洋の楽器や文化に触れた。山深い城下町、竹田では箏や尺八などの日本の楽器の音色を聴き、嗜んだ。上京した廉太郎は、当時最年少の15歳で東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、予科、本科専修部、研究科へと進んだ。

(2019年2月14日発売「Re -瀧廉太郎作品集-」トーンフォレストレコード解説より)

 

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当時最年少の16歳15歳で東京音楽学校に合格した瀧廉太郎は、1900年出版の組歌《四季》の緒言において「近年歌曲が多く作られているが、それらは学校の教材に留まり、レヴェルが高いものは西洋の歌曲の旋律に日本語の歌詞をつけているため、原曲の水準や世界観が損なわれている。日本語の歌詞に作曲した作品をここに発表することで、今後、日本語の歌の発展に役立つのではないか」と綴り、当時の日本における西洋音楽の在り方に一石を投じた。〈花〉の歌詞は、東京音楽学校の教授を務めた国文学者、武島羽衣の作である。

 

東京音楽学校は1901年に、中等学校の唱歌教育の充実と、詩人、作曲家の意欲向上のため《中学唱歌》を作った。作詞は様々な文学者、詩人、教育家に委嘱し、作曲は音楽学校内外の作曲家から賞金付きで募集した。瀧は申し込みできる最大の3曲を提出し、すべてが採用された。〈箱根八里〉の詞は、東京音楽学校で瀧に国文学と漢文を教えた鳥居忱の作である。〈荒城の月〉の作詞者である土井晩翠は、青葉城と鶴ヶ城を、瀧は幼少期を過ごした大分県竹田(たけた)市の(おか)(じょう)あるいは、父の出身地である大分県日出町(ひじまち)(よう)(こく)(じょう)などをイメージしたであろう。同年、瀧はライプツィヒに留学するが、入学後まもなく風邪をひき、肺結核を発病し帰国。1903年に23歳と10か月で死去した。その後、〈荒城の月〉は山田耕筰(1886~1965)が、西洋音楽受容初期の日本語の歌を復活させる「古歌復興」の活動の一環で1917年に伴奏付き独唱曲に編曲した。2019年に、瀧の親友であった掛川出身の鈴木毅一の遺族から、瀧が書いた手紙や直筆譜など多くの貴重な資料が竹田市に寄贈された。彼らが辿った日本の西洋音楽黎明期に関する研究が今後益々進むであろう。

(2022年1月23日静岡音楽館AOI:日本歌曲の系譜Ⅰ解説より)