モハメド・アリの葬儀の際、俳優ビリー・クリスタルのスピーチが大変感動的だったので、適当訳ですが掲載します。彼だけが知るアリの一面、そしてアメリカにとってアリとはどのような存在だったのかを端的に表現して素晴らしいスピーチだったと思います。

 

 ご家族のみなさん、大統領閣下、そして素晴らしいルイビルのみなさん。この場にあふれる愛と尊敬の念は、引退後35年を経ても彼がなお「世界王者」であることを雄弁に物語っています。先週、彼の訃報を耳にした時、世界はその動きを止めました。戦争やテロ、恐ろしい出来事は一時やみ、世界は深く息を吸い込み、彼の死を悼んだのです。私もアリとの42年にも及ぶ交流を思い起こしていました。
 ここでは彼の功績ではなく、個人的な思い出を振り返りたいと思います。
 彼と最初に会ったのは1974年でした。私がスタンダップ・コメディアンとして活動を始めたばかりのことです。その頃よくやっていたネタがコーセル(著名なスポーツキャスター)とアリのモノマネ。アリはジョージ・フォアマンを破り世界王者に返り咲いた直後でした。スポーツ誌の最優秀賞に選出され、授賞パーティーがテレビ番組として中継されることになり、そこに私がキャスティングされたのです。実は別のコメディアンへ出演依頼があったのですが、私のエージェントが「彼はスケジュールの都合がつかない」とか適当なことを言って「アリとコーセルのモノマネをやる新人がいるのでどうか」と私をねじこみ、なんとそれが通ってしまったのです。信じられませんでした。初めてのテレビ出演がアリとの共演だなんて。極度に緊張しながら会場入りすると、「君を何と言ってみんなに紹介すればいい?誰も君を知らないからな」と主催者が言うので、「アリの一番の親友だと言ってください」と言っておきました。自分はただネタをやるだけと思っていましたから。
ともかく、人でいっぱいのパーティー会場に入り、そこで初めて実物のアリと会うことになりました。私にとってアリがどれほどの存在であるか、説明するのは難しいです。それは彼と同じ時代に生きた者でなければわからないでしょう。彼の試合を後の時代に映像で観るのも素晴らしいですが、「その時代」に生きて実際に彼の試合を体験することは格別のことなのです。すべての試合がスーパーボウルみたいなものですからね。KOラウンドを予告して、実際にそれをやってしまうんですよ!彼はユーモアに富み、美しく、史上最も完璧なスポーツ選手でした…と本人がそう言っていました(観客爆笑)。
 しかし、彼は単なるスポーツ選手以上の存在でした。ロバート・ケネディ、マーチン・ルーサー・キング牧師、マルコムXを失い、ベトナム戦争に直面していた我々の世代が術もなく戦争の渦に巻き込まれようとしていたとき、ただ一人立ち向かってくれたのが彼でした。その代償として、世界王座を失い試合をすることもできなくなった時、彼は様々な場所で講演を行い、その言葉は我々に届きました。すべてを失っても彼はユーモアを失わず、そして、自分の信念を貫くために進んですべてを失うことを選んだ彼の姿に大きな感銘を受けました。
 彼が情熱的に訴えた黒人たちの苦境についての言葉は私の家族にも大きく響きました。私の家族は公民権運動に深く共感していました。私の父はニューヨークでジャズコンサートのプロデューサーを務めていました。そして、40年代から50年代にかけて、当時ではまれな黒人と白人が混在したジャズバンドのメンバーでもありました。私の叔父や家族、つまりユダヤ人たちが、白人による黒人のリンチについて歌ったビリーホリディの「奇妙な果実」をプロデュースしたのです。そういう環境に育った私ですから、アリの存在に感じるものがあったのです。
 彼と初めて会ったその時も彼のささいな動きすべてに目が離せませんでした。全身から放たれる輝き、すばらしい笑顔。私は彼からほんの数席離れたところに座っていました。有名なスポーツ選手や芸能人であふれる場内で、私は誰からも相手にされず完全に浮きまくっていました。やがて出番になり、演台についてすぐにネタを始めました。「こんにちは。わたくし、コーセルがザイールから生中継でお伝えします。ゼアーと発音する人もいますが、それは違う!」。これでまず爆笑をとりました。そして、続いてアリのモノマネ。「俺は速い。速すぎてこないだなんて眠ろうとして部屋の電気を消したけどまだ昼だった!」「今日から俺はユダヤ教に改宗する。今後俺の名前はイジ―イシュカウッジュ。ヘブライ語で俺こそ最も偉大な人間という意味だ!」。観客は大喜びでした。ロングアイランド出身の「白人」の青年がアリのモノマネをするなんてことはこれまでなかったのです。アリも気に入ってくれて、ぎゅっと私を抱きしめ耳元でこうささやきました。「君は俺のリトル・ブラザーだ」と。その呼び名は最後に我々が会ったその日まで続きました。
 私たちはお互いが必要な時には必ず手を差し伸べあいました。最も記憶に残るのは、エルサレムの大学で催されたチャリティーディナーの席でのことです。彼は名誉議長を務めていました。私も末席に座っていました。彼はその会のプロモーション活動を行い、ディナーではずっと私の家族とともに過ごしてくれ、その晩のすべてのゲストと写真を撮ってくれました。世界で最も有名なイスラム教徒が、ユダヤ人の友人のためにひと肌ぬいでくれたのです。それにはもちろん理由があります。我々は彼のおかげで多額の寄付を集めることができたのですが、それは私が彼に話し賛同してくれた、あるプロジェクトのためでした。それは「芸術を通じての平和」というもので、イスラエルやアラブ、パレスチナの作家や俳優や演出家が一同に集まり、平和的に一つの演劇作品を作り上げるというものでした。このプロジェクトは彼なしでは実現できなかったでしょう。
 彼とは本当に楽しい思い出がたくさんあります。ハワード・コーセルの葬儀に出席したときのことです。彼の棺を前に、私とアリは並んで座っていました。突然、彼は私の耳元でこうささやいたのです。「コーセルはかつらをつけたままかな?」と(観客爆笑)。私は「いやあ、さずがに違うと思いますよ」と言うと、彼はこう言ったのです。「それじゃあ、彼だと神様でも分からんだろう」(観客爆笑)。「チャンプ、心配しなくてもきっと声でわかりますよ」と返すと、葬儀の場であるにも関わらず、私たちは笑いをこらえきれませんでした。
 また、ある朝、アリからジョギングに誘われたことがあります。「近くにいいゴルフコースがあるんだ。誰にも邪魔されずに気持ちよく走れるぞ」と。しかし、私はこう言いました。「たぶん私は中に入れませんよ。あのクラブはユダヤ人を会員にしないらしいから」。「黒人の、しかもイスラム教徒の俺が問題ないのにか!わかったよ、リトル・ブラザー、俺はもう2度とあそこには近づかない」。彼はそう言って、実際に言葉通りにしたのです。
 私のお気に入りの思い出は1979年、彼の引退パーティーです。私のアリのモノマネはその後も成長し続け、彼の18歳のときからレオン・スピンクスとの再戦までを描くものになっていました。会場には25000人がいましたが、私はアリただ一人のために演じました。私自身最も気に入っている演目です。終了後、楽屋で同じくヘビー級チャンプだったリチャード・プライヤーが泣きながら私に抱きついてきました。その向こうからアリも私に近づいてきました。そうして耳元でこうささやいたのです。「リトル・ブラザー。お前は俺の人生を実際よりちょっとだけ素敵にしてくれたな」と。しかし、彼こそ我々の人生を少しだけ素敵にしてくれたと思いませんか。
 彼の存在を言葉で表現するとすれば、「鮮烈な稲妻」です。圧倒的な力と美の競演。落雷のごとき鮮烈な瞬間は写真や映像に残されています。恐ろしいまでの力強さと素晴らしい優美さ。その瞬間、彼が放つ強烈な光はすべてを照らし出しました。アリは、アメリカの最も暗い時代に落とされた強烈な稲妻でした。我々はその光によって鮮明に見ることができたのです。私たちの社会の不正義、不公正、貧困、自己認識、笑い、勇気、愛、喜び、宗教の自由について。アリは我々に自分自身を見つめ直すことを強いてきます。彼は我々を怒らせ、混乱させ、挑発してきました。そして、最終的には静かな平和の使者となったのです。彼は私達に示してくれました。人生とは人と人との架け橋となって価値のあるものであると。けして壁などではなく(観客拍手)。
 千年に一人という存在があります。モーツァルト、ピカソ、シェークスピア。アリもその一人です。しかし、彼は同時にここルイビル生まれの、神を愛し、弱きとともに歩いた稚気ある一人の人間でした。彼は逝ってしまいましたが、けっして忘れられることはないでしょう。彼はいまも私のビッグ・ブラザーです。