最近サークルに、ご新規さんが増えたように思う。
打ち慣れた人もいれば、「ネットでしかやったことないんですよ」というビギナーズさんもいるが、やはりノーレートサークルで麻雀教室もやっているのでビギナーズさんが多い気がする。
自分らが麻雀始めた頃はネットがなかったので、麻雀やりたいときは面子集めをする面倒くささがあった。面子が集まらなければ、自分で買った麻雀牌であれこれ修行ぽいことして遊んだものであった。
先日のサークルで初見ビギナーさんと数回対局した。
自分と対局したときは、全てラスで、「ラスしかとれない・・・・」と呟き、なんでだろうって怪訝な顔をしていた。
そんな矢先の東一局、彼の出親でリーチがかかった。
そして、「ツモ」と手牌を見せる。
⑤筒がドラの⑤赤ツモで、リーチ、ツモ、チートイ、タンヤオ、ドラドラ、赤赤だった。
「えええと、満貫・・・・は、4000オール」と自信なさげな申告。
誰か忘れたが、4000点を差し出そうとした人がいて、「いや、それはないやろ」と思わず言ってしまった。
すると、「6000オールか」とまた誰かが言ったので、「それもないやろ」とまた思わず言ってしまった・・・・。
親倍から始まったビギナーズさん、顔が若干赤身がかったようであったが、さらに熱に浮かされるだろうとの予感はあった。
東ラスで、親に18000点を放銃をきっかけに、ATM状態となり、オーラスでは点棒は12000点ほどで、浮上することなくまたラスを引いた。
ビギナーズには優しいサークル卓であるが、その日の彼には試練しかなかったようだ。
考え方、物の見方によって成り行き(結果)は変わる。
世の中因果応報、考え方が大事。
物事の見方はいろいろある。
自分、相手、第三者などだが、よくいわれるのは、鳥の目と虫の目、そして魚の目である。
俯瞰的、大局的に物事を見る目と、局部的に細かい部分まで見る目、そして流れを見る目である。
どちらも大事。
倍満を親に自模られた。
その後、残りの局でどういう闘いをしていくのかといった大局観。
一方で、その都度の手牌、自摸、自分、相手、点棒状況等の局部的対応も必要だ。
そのビギナーさんは、一言でいえば麻雀が「近視眼的」であり、自己都合麻雀が過ぎていたのだ。初心者にその傾向は強いが・・、それでも配牌と自摸がよければ勝てるのが麻雀だが、彼には運がなかったのかもしれない。
ただ、彼の捨て牌を見てると毎局面子の被りはいくらかある。
なので、運があってもそれに気づくかどうかといった問題もある。
運があっても、それに気づく心がなければ、運はただ過ぎ去るのみである。
魚の目ってのも大事だね。
どの目でその場面を見るか、それがセンスでもある。
ところが、そんなもの関係なしと「蜻蛉も蝶々も鳥の内」と一蹴してしまう見方もある。
実はそれも一理あるのだ。いわゆる「味噌も糞も一緒」ってやつ。
たとえば、人間とそこらに転がっている路傍の石も、分子レベル以下の目では判断がつかないだろう。または、人の生死ってのも地球規模で見れば秒単位で繰り返される些細な現象であり、人の歴史ってのも地球が誕生して今迄を1日とすると、1分数十秒ぐらいじゃないかな。
さらにスパンを広げて宇宙規模にすれば、天和の確率などコンマ何秒以下でどこかで起こってもおかしくない現象かもしれない。
そんなこと言ったら話にも何にもならないってことになるのだが、とりあえず先ずは、大事なのはどのスパンで物事を見るのかってことになるのかな。
ほら、よく言うじゃない、「わしの目の黒いうちは・・・・・」ってね。
まぁね、自分の場合は、高所恐怖症なので、鳥は鳥でも飛べない鶏みたいなもんかな・・・、しかも暗闇はまったく見えない(笑)。
なので、あちこちぶつかるのである。
虫の目もね、そろそろ老眼がいるのかなと・・・・・
ご飯食べる時のおかずがね、お箸つまんで、近くで見ようとすると「これ何かなとか・・・よくみえんのだよ、明智君」(笑)。
近くが見えにくくなるなんて、30代まで信じられんかったわさ。
なので、もうどうでもええわってなってきたかな。
とりあえず口に入れて食べちゃえってね(笑)。
魚の目もね、右足の親指の根本の裏側ね、取っても取ってもできるんだよ(笑)。
やっぱ、ほっとくと痛いんでね。痛いとよう流れについていけんようになってさ・・・。
いやいやカールゴッチ先生曰く、「トレーニングは若いうちは"should"で、歳行くと"must"だ」ってことで、すなわち、私は麻雀を打ちに行くのである。