前回、「初診日までの痛みと不安に耐える日々」の続きです。

18日か19日には私の太ももの感覚が鈍くなっていた。完全に感覚がなくなったわけではなかったが、触っても半分くらいしか触覚が働いていないようだった。腫瘍が原因に違いない。腰の痛みも日増しに強くなり続けていた。夜中に痛みで目が覚める回数も増え、疲れがとれない状態も続いていた。一刻も早くどうにかしなければ。私は焦る気持ちと迫り来る恐怖をなんとか紛らすため普段通り仕事をしながら初診日を待った。

初診日の前日の20日の会社の業務日誌には、「痛みが勝ってしまい、あまり業務に貢献できず。窓口の接客対応はあまり行わず、後方事務に専念。明日診察予定。医師の指示を仰ぎ、早期に職場復帰できるよう対応していく。」と記入していた。

そしてついに、初診日の21日が来た。この日もやはり午前3時前後に腰の痛みで目が覚めた。トイレに行ってボルタレンの座薬を入れるいつもの作業をした。ただこの日違ったことは、今日ようやく診察を受けることが出来るという希望があったことだ。とりあえず病院へ行けることが私を安心させた。また同じように痛みに耐えながら再び眠りにつき、7時ごろに起床した。

診察は午前10時からであったが、早めに着いておいた方が良いということで、8時前には家を出た。この日は私の父も仕事の休みをとっており、母親とともに私を病院まで連れて行ってくれた。家から病院までは車で1時間ほど。電車で行こうかとも最初は少し思ったが、すでに私は立ち続けることに耐えられないほど腰の痛みが酷かったし、家族が連れて行ってくれるというのでそれに甘えることにした。私は車の後部座席に座りながら、気がつけば眠っていた。夜中に熟睡できず疲労が溜まっていたのと、車のシートは体の負担を分散されるように設計されていて、そこに座っている間だけは腰の痛みを感じずにすんだのだ。

そうしてつかの間の休息を感じた私であったが、1時間ほどして、病院の前へ着いた。「いよいよか」。自然と気が引き締まった。病院の駐車場へ入る車が続いており、私と母親は先に降りて受付へ向かうことになった。車から降りた途端また腰の痛みを感じた。もう痛くて病院の入り口へ歩いていくのも一苦労だった。母親がゆっくり歩いていたので私は「早く来て!」と言った。

そしてまずは総合受付へ行って紹介状を提出した。総合受付の近くにある会計の待ち場の椅子に腰をかけ、車を置きにいった父がこちらへ来るのと受付から声がかかるのを待った。大病院の会計の待ち場所ということだけあって広かった。真ん中の柱のところにはプラスチックで作られたクラゲが水中を泳ぐ水槽が置かれてあった。普通に腰をかけているだけではすぐに腰の痛みが耐えられなくなり、ちょうど二人掛けの椅子で隣に誰もいなかったので、体を横にしてみたりしてとにかくなんとか耐えれる態勢を探した。どんな態勢にしても、最初はこれなら耐えれるのかなと思ったのだが、すぐにまた痛みが復活してきて態勢を変えるということを繰り返した。

そうしているうちに父親がやってきて総合受付の係りの人から呼ばれ、まずは内科の診察を受けるように案内された。場所を教えてもらい、2階へ上がった。内科の待合のには既に大勢の人がいたが、座る場所を何とか見つけることができた。本を手にっ取ったり、テレビで流れるドラマをぼーっと見ながら時間を潰した。2、30分くらい待っただろうか。前の人がどんどん呼ばれていき、いよいよ私の名前が呼ばれた。最初は軽い問診を受け、私の現状を説明した。そして中待合へ戻り、少ししてから肝胆膵外科の教授のところへ看護師に案内されながら通された。G教授だった。まずは「はじめまして。よろしくお願いします。」と挨拶した。私はいきなり教授が診察してくれたことに少し驚いた。

私たち家族3人は診察室の椅子に腰掛け、教授は「ちょっと画像を確認しますね。」とパソコンに見入った。地元の整形外科で撮ってもらったCTとMRIの画像である。教授の顔がみるみる険しくなっていった。すごいものを見たと言わんばかりの表情だった。教授の隣には若い先生が座っていて、その人が診察の様子をパソコンに打ち込む役目をしていた。教授が幾つかのことをその医師に伝えていたが、その中で「巨大腫瘍」と教授が言ったことが特に印象に残った。そして私の痛みなどの現状を伝えた後、「今後行っていただくことを伝えますので一旦中待合でお待ちください。」と言われ中待合の椅子に再び座った。

私たち家族は絶望とこの上ない恐怖を感じていた。

つづく