私がサタンに惑わされ傲慢になっているという噂が、教会スタッフやグループリーダー内で流れていることを知った。
私は強い憤りを覚えた。
教会スタッフは良くも悪くも上に従順なのだ。
その対象が神であるならよいのだが、私には教団トップがその対象になっているように見えた。
教団トップ、側近である韓国部の重役の言うことは絶対で、彼らに従うことが神の御心に適ったことだと考えている。
例え明らかに間違っていると思われることでも、それら方針や命令に従順の姿勢を示していた。
自分達に都合の悪いことは全てサタンのせい、へりくだって自身を客観的に見つめることをしない。
だから教会を離れてしまった魂やメンバーにも無神経で無慈悲なチャレンジができる。
彼らこそ傲慢ではないかと私は感じていた。
「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、
また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
ローマの信徒への手紙 12:2
神は何も考えない従順ロボットを求めてはいない。
教会やクリスチャンが完璧でないのは分かっている。
でもそれを言い訳にして自身の過ちを正当化するのはもっと間違っている。
私たちは神のもとで常に祈り、常に考え、完全なことを目指していくべきなのだ。
私は神に任された魂の今、未来に責任を持ちたい。
信仰を持つことで彼らがもたらす教会への実質的なリターンではなく、彼らに神に対する真の信仰を持ってほしい。
将来的にこの教会を離れることになっても、違うどこかで信仰を持ち続けてほしい。
教会になんと言われ、どう思われようと教会のいいなりにはならない。
私は決意を固めていた。
ただ当時の私はまだ若く、幼稚だった。
礼拝や集会には参加するが、会議やイベント類にはほぼ不参加の姿勢を示した。
心身を休ませるリトリートにも出なくなった。
神は教会内の調和も求めている。
私の判断は今思い返しても、とても正しいとは思えなかった。
教会との壁は日に日に高まっていった。
そしてついに教会は私の魂を引き離しに動き始めた。
つづく