同名のテレビ映像を先日見た。



若い頃の徹子さんて、きれいだったんだな❗
渥美さんと徹子さんの交遊を表している記事を抜き出します。


黒柳は渥美さんとは1958~1961年放送のドラマ『お父さんの季節』(NHK)で初共演。プライベートでも交友があり、『男はつらいよ』シリーズは毎年一緒に映画館に観に行っていたという。

 黒柳は渥美さんが出演した最後の『男はつらいよ』シリーズの撮影現場に山田監督の誘いで足を運んだ時のことを回顧。山田監督は「渥美さん元気ないし、徹子さんがいらしたらきっと元気になるんじゃないかなって思って」と現場に黒柳を呼んだ時のことを思い返し、黒柳も「私が行ったらすごい元気だったんですけど、私も鈍感でね。どこかが悪いなんて夢にも思わなかった。いつもの渥美さんだと思ってたんで、普通にしてたの。だからそれが渥美さんにとっても良かったのかな」と振り返った。

 また、黒柳は渥美さんとも最後の会話も告白。その当時は黒柳の方から電話をかけても一向に渥美さんから連絡がなかったそうで、会った際には「どうしてかけてくれないのさ」と怒りをぶつけ「女連れて温泉にでも行ってたんでしょ」と責めたと黒柳。渥美さんからは「お嬢さんはバカですね。そんなとこ行きやしませんよ」との言葉が返ってきたと振り返り、その時、渥美さんが笑いながら泣いていたことを明かした。

 突然の涙に当時は困惑したと黒柳。「あとで聞いたら、病院に行って(がんの)治療して、あとは家に帰って寝てた状態で、私と会ったら『女連れて温泉に行った』なんて言うから、なんてこの人鈍感だと思ったんでしょうね」と言い、山田監督は「今年いっぱいだって覚悟してた時だと思いますよ。みんな気を遣ってたから渥美さん逆に辛かったんでしょうね。だから徹子さん何も気を遣わないから、あなたに会うことがどんなに彼にとって嬉しかったか。渥美さんのミューズだったんですよ」と話していた。~以上ネットからの抜粋



確か、寅さんの映画のあとだったと思う。山田洋次監督92歳と黒柳徹子さん90歳の対談だった。


実は黒柳徹子さんと渥美清さんはとても仲が良い。

テレビの草創期に坂本九さんも出ていた「夢で会いましょう」というバラエティー番組で共演してからのことだったようである。


なぜ今、渥美清さんかといえば、長期出張中でホテル住まいだと、寅さんのような屈託のないものを見ている方が精神が調うというようなところがあって、週末は見るようにしている。


1991年に渥美清さんに肝臓癌が、発見され肺にも転移している。つまり、そこで余命宣告を受けていたはずだ。


1991年と言えば、ぼくと家内が東京に出た年でもあってぼくらにとっては大事な年になっている。


1991年以降、1996年に亡くなるまで毎年1作は作られていたわけで、スッタフに挨拶されても返すこともできないと山田洋次監督に話している。それほど病状は悪化していた。



鬼気迫る状態で撮影は進められたんだね。



私生活を徹底的に隠して、公私混同をとても嫌っていたそうだ。


「スーパーマンはね、飛べと言われれば飛ばないとダメなんですね」といって、寅さんであることに徹したのですね。


ぼくは、1991年に著名な建築家に弟子入りしてからなんだかんだで、1997年くらいまで東京にいた。子供ができたことで夢を中断して田舎に帰り、98年に待望の息子が生まれた。


ぼくは、当時代官山とか銀座とかよく徘徊していて、早朝だったと思うが、路地からひょっこり顔を出した渥美清さんに遭遇している。

ちゃんちゃんこのようなものを羽織っていたように思うが、あっ寅さんって思ったらまたどこかへ消えてしまった。あのときの光景を不思議なことだがいつまでも覚えている。



「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから」

印象的な台詞です。




ぼくも呼んでもいいのかな⁉️




今日、3月24日日曜日もまた寅さんがテレビであって、第7作ですね。また見ようと思います。見て、明日からの力にしたいと思います。


心もからだも調えて。