同名のテレビ映像を先日見た。
確か、寅さんの映画のあとだったと思う。山田洋次監督92歳と黒柳徹子さん90歳の対談だった。
実は黒柳徹子さんと渥美清さんはとても仲が良い。
テレビの草創期に坂本九さんも出ていた「夢で会いましょう」というバラエティー番組で共演してからのことだったようである。
なぜ今、渥美清さんかといえば、長期出張中でホテル住まいだと、寅さんのような屈託のないものを見ている方が精神が調うというようなところがあって、週末は見るようにしている。
1991年に渥美清さんに肝臓癌が、発見され肺にも転移している。つまり、そこで余命宣告を受けていたはずだ。
1991年と言えば、ぼくと家内が東京に出た年でもあってぼくらにとっては大事な年になっている。
1991年以降、1996年に亡くなるまで毎年1作は作られていたわけで、スッタフに挨拶されても返すこともできないと山田洋次監督に話している。それほど病状は悪化していた。
鬼気迫る状態で撮影は進められたんだね。
私生活を徹底的に隠して、公私混同をとても嫌っていたそうだ。
「スーパーマンはね、飛べと言われれば飛ばないとダメなんですね」といって、寅さんであることに徹したのですね。
ぼくは、1991年に著名な建築家に弟子入りしてからなんだかんだで、1997年くらいまで東京にいた。子供ができたことで夢を中断して田舎に帰り、98年に待望の息子が生まれた。
ぼくは、当時代官山とか銀座とかよく徘徊していて、早朝だったと思うが、路地からひょっこり顔を出した渥美清さんに遭遇している。
ちゃんちゃんこのようなものを羽織っていたように思うが、あっ寅さんって思ったらまたどこかへ消えてしまった。あのときの光景を不思議なことだがいつまでも覚えている。
「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから」
印象的な台詞です。
ぼくも呼んでもいいのかな⁉️
今日、3月24日日曜日もまた寅さんがテレビであって、第7作ですね。また見ようと思います。見て、明日からの力にしたいと思います。
心もからだも調えて。

