ぼくは今、単身赴任中にその赴任先からの更なる出張で大分市内で仕事をしている。


仕事を終わって帰ったところで、ビジネスホテルのシングルルームで誰が待っているわけではない。


いまどき、単身赴任なんて、珍しいことでもなくて海外に何年も行っている人もいるだろう。


家族がいれば、さみしくないわけもないだろう。


ところで、昨日だったか突然に施設にいるたくさんの高齢者のことに思い至った。



ぼくは。


自分がそうなったときに、どのようにさみしさをまぎらわせるのだろうか…もはや自分でどこへも行けないのかもしれない。



では、ぼくは今、どのようにメンタルに折り合いをつけているのだろうか。

単身赴任と言ったって、自分の足でどこへでも行けるので気分転換は自分でできる。


しかし、


この出張が終わったところで、帰る先は、なんのことはない、単身赴任先のアパートメントである。



では今、このホテル暮らしを支えているぼくのメンタルの事情はどうなっているのだろうか?


まずは、毎日、家族とのLINEを欠かさない。毎日だと特に言うこともないようなときもとにかく声をかける。


特に昨日などは世界卓球女子の決勝を見る。家族も見ていて美和ちゃんを応援している。こういうときぼくらは空間的な距離はなくなっている。


でも、そんなんじゃない。


使命感、


ぼくが家族を経済的に支えているという、支えなければならない、という使命感。だと思う。結局、一人でいていろいろな気持ちが沸いてくるのをすんでのところで踏みとどまるメンタル的な要因はそういう使命感だと思う。


さて、私が施設でひとりで過ごそうと思うとき、もはやそういう判断ができないほど痴呆が進んでいれば仕方のないこと。


そうではなくて、ぼくが元気な場合、そう、90歳くらい生きたとき、施設で暮らす決心をするのはどういう理由からだろうか、というと、それは、介護とかでもはや家族と住めない、子供たちと住めないことを悟って自ら身を引くのだろう。


家族に迷惑をかけないように。


それは、あきらめ。

それは、子供たちに向ける最後の優しさ。

それは、そういう使命感。

今まで生きてきた家族との思い出を胸に新たなホームの生活をするのだよ。


そこまで、想像してきてぼくは、今、高齢の母親が、一緒にいるのであれば、それは最後まで家に居させてあげたいと思った。それは自分勝手な思いであることはわかっている。


ぼくは、年間数日しか家族と過ごせない今、自分と向き合って、こう思う。


家族とどれだけ離れようが、淡々と暮らそう、ぼくには家族を支える使命がある。

それは、いつだって、どんな状況になっても、それに見合う使命感が、ぼくを支えているのだから。