『蜻蛉日記』の自己省察の世界へ、唐木順三『無常』と仏訳を介して、参入を試みる | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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今年度前期の修士一年の古典講読の演習は、昨年度の反省を踏まえて、唐木順三の『無常』をテキストとして、その議論を追いながら、その中に頻繁に引用される古典原文を読ませるという形式を取っている。

その反省というのは、昨年度、『蜻蛉日記』『紫式部日記』『和泉式部日記』の原文をいきなり読ませたのだが、これは学生たちの日本語能力からして無茶な話であったということである。彼らは重篤な「消化不良」を起こし、その結果、筆記試験の答案は惨憺たるものであった。『紫式部日記』の一節の和訳を試験問題として課したのだが、現代語訳と語注付き、辞書ノート持ち込み可、しかも試験一週間前の授業で試験の和訳箇所の直前を読んでおいたにもかかわらず、十二人の受験者中、誰一人まともに訳せた者はいなかった。部分点を上げるのにも一苦労するくらいひどい出来であった。

そこで、今年は、現代文の中に古典の引用が含まれているテキストを選ぶことにした。それで唐木順三の名著を講読テキストとして選んだのである。この選択は間違っていなかったと思う。今年度は、修士一年生が三名しかおらず、学生たちの反応を見ながら懇切な説明がしやすいということもあるが、彼女たちは、唐木の解釈(ときに私はそれを批判するが)を追いながら、必要に応じて原文を参照するという演習の進め方によく適応してくれている。

それに、昨年は、原文そのものを読ませることに私の方でこだわったが、今年は、仏訳も大いに参照して、原文の理解を深めることを主眼としている。

唐木の『無常』の第一部は、王朝女流文学における「はかなし」の語義をめぐって展開されるが、前半は『蜻蛉日記』についての考察に多くの頁を割いているので、演習でも自ずと『蜻蛉日記』を重点的に読むことになった。

私たちにとって大変幸いなことに、『蜻蛉日記』には、ジャックリーヌ・ピジョー先生の名訳がある(Mémoires d’une Éphémère (954-974) par la mère de Fujiwara no Michitsuna, traduit et commenté par Jacqueline Pigeot, Bibliothèque de l’Institut des hautes études japonaises, Paris, 2006)。しかも、同訳の後には、先生ご自身による百頁を超える懇切丁寧な解説が付されており、それが単に『蜻蛉日記』の概説に終わるものではなく、中古文学における日記文学というジャンルの特異性について実に行き届いた手ほどきともなっている。その上、同日記中の重要語や登場人物について解説目録と図版・写真も巻末に収録されている。この一冊を熟読することによって、フランス語圏の読者は、たとえ日本語が読めなくても、『蜻蛉日記』について、日本の大学で日本古典文学を専攻する修士レベルの知識と理解を得ることができるだろう。

一例として、中巻の天禄元年十二月の一節の原文とピジョー訳を引く。ここは道綱母が厳しい自己省察を述べている箇所である。

 

今日の昼つかたより、雨いといたうはらめきて、あはれにつれづれと降る。まして、もしやと思ふべきことも絶えにたり。いにしへを思へば、わがためにもあらじ、心の本性にやありけむ、雨風にも障らぬものとならはしたりしものを、今日思ひ出づれば、昔も心のゆるふやうにもなかりしかば、わが心のおほけなきにこそありけれ、あはれ、障らぬものと見しものを、それまして思ひかけられぬと、ながめ暮らさる。(小学館日本古典文学全集『土佐日記 蜻蛉日記』、1995年、214-215頁)

 

Aujourd’hui, depuis le milieu du jour, on entend tomber de grosses gouttes, pluie morose qui ne cesse pas. Plus que jamais je renonce à toute espérance de le voir. Quand je me remémore le temps jadis, sans doute n’était-ce pas pour mes beaux yeux, mais en raison de sa pente naturelle, que, brabant la pluie et le vent, il prenait ici ses habitudes. À y repenser aujourd’hui, jamais, même dans le passé, mon cœur n’a goûté le repos : je nourrissais donc des prétentions excessives ; ah ! maintenant que j’en ai constaté la vanité, il me faut y renoncer. C’est dans ces méditations que je passe la journée (Mémoires d’une Éphémère, op.cit., p. 102).