摘録を続けている
Ilsetraut Hadot の本の第一部第二章は、« « Parénétique »,
« dogmatique » et direction spirituelle » と題されており、ストア哲学を構成する二つの部分について、セネカのルキリウス宛書簡第94,95番に基づきながら、両部分それぞれの内容と両者の密接不可分な関係を明快に説明している。
その二つの部分は、同章のタイトルにもあるように、それぞれ
« parénétique » « dogmatique » と規定されるが、前者は
« pratique »、後者は « spéculative »
ともセネカ自身によって言い換えられてもいる(ルキリウス宛書簡第95番第10節参照。ただし、Robert Laffont 社の « BOUQUINS » 版の仏訳では、前者は
« active » と訳されており、この方がラテン語原文に忠実である)。しかし、今日の通常の意味での「実践的」と「思弁的」とにそれぞれ対応させ、後者のみが本来の哲学だ考えると、ストア哲学の要諦を読み違えてしまうことになる。
同書簡の当該箇所を見てみよう。
Praeterea nulla ars contemplativa sine
decretis suis est, quae Graeci vocant dogmata, nobis vel decreta licet
appellare vel scita vel placita; quae et in geometria et in astronomia
invenies. Philosophia autem et contemplativa est et activa: spectat simul agitque.
Erras enim si tibi illam putas tantum terrestres operas promittere: altius
spirat. Totum inquit mundum scrutor nec me intra contubernium mortale contineo,
suadere vobis aut dissuadere contenta: magna me vocant supraque vos posita (Epistulae morales ad Lucilium, Liber XV,
95, 10).
哲学は、同時に
« cotemplativa »
であり、« activa »
なのである。今日のところは、後者に対応する « parénétique » の意味だけを確認しておこう。
まず、
Le Grand Robert によれば、この形容詞は、« parénèse » という名詞の派生語で、この名詞自身は、ラテン語の
« paraenesis »
を直接の語源とし、このラテン語は、ギリシア語の « parainesis » の音写である。このギリシア語の意味は、(善き行いを)「説き勧めること」(exhortation)である。そこで、« parénétique » は、「教化的」と訳すことにする。
先回りして言っておけば、« dogmatique » の方は、「教説的(あるいは教義的)」と訳すことにする(今日のフランス語でのこの語の普通の意味、「教条的」「独断的」は、ストア哲学においてこの語の指し示すことがらのまさに反対であることに注意されたし)。
哲学の「教説的」な部分は、何をその目的とするのか。一言で言えば、それぞれの個人が社会の中でのその立場にふさわしい行動ができるような諸々の「教え」(« praecepta »)を与えることである。
それらの教えは、しかし、ただそれとして与えられるだけではない。次のような諸形式を取る
― « suasio », « consolatio », « exhortatio »,
« inquisitio causarum », « ethologia »。それぞれ、「助言」「慰め」「奨励」「原因究明」「徳論」(種々の徳行と悪行それぞれの特徴の詳細な記述)と訳すことができる。セネカは、ここでポシドニウスの説に従いながら、これらを列挙している。